第252話 春の嵐#3 共同幻想

クリプトメリアが懸念するのはむしろ、例えばこの新聞の一面に書いてあるようなことを、誰がどの程度”真に受けて”信じているか、ということだった。


愛国精神、無私の奉仕、名誉、絆。

国家の苦悩は国民一人ひとりの苦悩であり、国民の流す血は国家の涙である。

国家の幸福こそ即ち国民の幸福である。


それらは古くそして新しく、美しい幻想でもあるが、所詮は幻想だ。

国家の本質とは、アメとムチと幻想を使い分けて国民を駆り立てる自家発電装置に他ならない。


国民がそう思って付き合うぶんには幻想もいいだろうが、

恐ろしいのは、そのからくりが巧妙になり過ぎて、国家から設定された使命やら精神性、望ましい国民像というものを、

国民自身が本気で、自分の望むものとして信じはじめているのではないか、ということだった。


この国威発揚記事も、宣伝省の検閲官が記者に指図してこう書かせたというなら、まあ健全な話だ。

だがどうも、書いている記者自身が記事に心酔してその内容を信じ込み、自ら進んでその流布と拡大すら行おうとしているように読み取れる。

スプリンクラーが人手を介さずに芝生に水を振りまくように、幻想を振りまく自動機関としての働きを、自ら進んで買って出ているように見える。


何とも薄気味悪い話だった。

暴君が強いて無力な民衆を抑圧する構図ですらないのだ。

国民が自発的に社会の要請を察知し、自らの役割を考え、進んで実行する社会。

そんな政治社会学の理想像のようなものは、現実世界の悪夢でしかない。

まるで国家の上に、国民の頭脳を統合する、仮想の巨大な頭脳が出現したか、

国民が自らの頭脳を計算資源として国家に提供し、思考の役割を委ねているかのようだった。

戦争に勝ったとしても、そんな気色の悪い、頭脳の肉団子のようなものに漬け込まれて生きるのはまっぴら御免だった。



新聞と灰皿の上に、ぼたっ、ぼたっと大粒の滴が落ちてきた。

クリプトメリアはテーブルを引きずって茶店の軒下に逃れた。

さびれくすんだ港町の風景に、激しい雨しぶきのカーテンが降りる直前、ヘリアンサスが飛び込んできた。


「ひゃー、危ない危ない。

追加の燃料、頼んどきました!

来週にはオシヨロフに運んでくれるそうです。

これ、領収書とオツリです!!」


ヘリアンサスは早口にまくし立て、髪や肩についた水滴を払い、領収書と紙幣をテーブルに並べた。


春になって初めての買い出しに、今日はクリプトメリアとヘリアンサスの男二人でやって来ていた。

ちなみにアマリリスは例によって、どこをほっつき歩いているのか姿が見えず、ファーベルは通信教育の課題が残っているから、と留守番を希望した。

課題を仕上げても、結局オロクシュマに行かなければ発送できないわけで、別に今日やらんでも、、とも思うが、何とも几帳面なファーベルらしい。


オロクシュマに着いて、買い出しやら郵便物の受け取りやら、かなりの数にのぼる用事をこなさなければならないクリプトメリアを、少年はよくサポートし、というよりも見かねてほとんど代行し、

おかげでクリプトメリアは溜まっていた新聞を読みながら、茶店でのんびり一服というわけだった。


「ご苦労、ご苦労。

少し濡れたな、何か温かいものでも頼みたまえ。」


「いえ大丈夫っす。

あとファーベルから幾つか買い物を頼まれてるんで、行ってきます。」


クリプトメリアはさすがに気が咎めて眉をひそめた。


「この洪水の中をか。

もう食料は船に積んだし、後はどうでもいいものばかりだろう。

この次でもよくはないかね?」


「ダメですよそんなの。

じゃ、行ってきます!!」


ヘリアンサスはそう言い捨てて、せっかく避難してきた豪雨の中に、再び駆けだしていった。


降りしきる雨が外界の物音を閉め出し、軒下に切り取られた空間に、クリプトメリアがふかす煙草の煙がたなびいた。


世界の異様さが、せめて子どもたちに害を及ぼさないと良いのだが。

彼らが、自分自身の幸福のために生きられるように。


戦争に負けても、そう簡単に国は滅びない。

けれど子どもたちが自分たちの考えではなく、誰かの言うことに従って生き、自らの幸福よりも社会の要請を優先するようになったら、

そんな社会に未来はなく、誰も幸福にせず、国は滅ぶだろう。


この国の未来や繁栄などといったものに、クリプトメリアは少しも興味を感じなかったが、せめて彼らの人生が幸福であってほしいと願っていた。

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