第249話 心地よい月夜

流氷の底から浮かび上がっては、海面で弾けて消えていくあぶくだけを残して、人魚は北の海に去っていった。

銀の月のもと、久々に波に洗われるようになったオシヨロフの外浜を歩きながら、アマリリスはある生き物のことを思い出していた。

魔族でも、動物でもなく。

故郷ウィスタリアの地に生息する、ある植物のことだった。


それは乾燥した荒れ地などに生える多肉性の植物で、普通は高さ十数センチ、

トワトワトに持ってきたら物珍しいかもしれないけれど、カラカシスではどこにでも生えている類のただの草。

けれど変わった特徴があって、普段は、この植物は花を咲かせず、種子も作らない。

葉の縁辺に直接、小さな子葉と根も備えた子株をつけ、それが風に飛ばされて周辺に落ち、根を下ろすことで繁殖していくのだ。

『多産の母』と呼ばれる由縁だが、実は子供ではなく、母株の体の一部が千切れて拡散しているのである。


そしてこの植物のもう一つの特徴が、根を下ろす場所によって大きく姿形を変えることだった。

乾いた砂地と、湿り気のある土の上とでは、同じ母株から落ちた子株が、全く違った姿に成長する。

そして、ある種のリュウゼツラン上に落ちた子株が、もっとも劇的な変化を見せることになる。


このとき、子株はリュウゼツランの体内に根を下ろす寄生植物となる。

そしてみるみるうちに巨大化し、リュウゼツランのロゼットの中心から、人の背丈を優に超える奇怪な姿の花茎を伸ばし、そのてっぺんにユリに似た多数の花を咲かせる。

リュウゼツランは開花のためのエネルギーを吸い取られて枯れ、子株もじきに枯れてしまうが、

その頃には綿毛に包まれた無数の種子が実り、風に乗って、新たな土地に飛ばされてゆくのだ。


『多産の母』が開花に利用するのは他種の生物の体だが、人魚は違うようだ。

人魚とレヴィアタン、、それはきっとこの魔族の、ふた通りの性の姿なのかも知れない。


目を閉じて、暗い海の底を思った。

入り江を離れた竜と人魚の少女は今ごろ、人間には全くの暗闇にしか見えない海の底を、おそろしい速さで進んでいるのだろう。

海底の谷を辿り、大陸棚を過ぎて、彼女たちの故郷である深海の底へ向かって。

その途中のどこかには、竜を作り出す依り代よりしろとなった大レヴィアタンの残骸が転がっているに違いない。


流氷を沖へと追いやる、穏やかな風が吹いていた。

アマリリスは毛皮服のフードを押し下げ、長い髪が流されるのに任せた。

風に吹かれるのを心地よく感じるのは、ずいぶん久し振りだ。


アマリリスは自分がここ数週間で、確かに感じながらずっと知らずにいたことにようやく気づいた。

時に吹雪き、身を凍えさせる寒気は去らずとも、冬は、アマリリスがかつてあれほど切望した季節にその座を譲ろうとしていた。



トワトワトの物語は後編、アマリリスの二年目の春に移る。

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