第240話 氷の回廊

兜岩の脇から覗き込むと、既に人魚の入り江は深い暗がりの中にあった。

けれど完全な暗黒というわけではなく、波打ち際に積もった雪や、無惨に切り裂かれた流氷の砦を輪郭にして、底にあるものがぼんやりと見分けられた。


もう心は決まっていた。

アマリリスはポーチからカンテラを取り出し、灯りをつけた。

――マッチを擦るとき、当然ながらミトンは外さざるを得ない。

厳冬期は指先を削られるような辛い作業だが、今はそこまでの寒さはなかった。


おぼろげな光を頼りに、オシヨロフの内湾側を辿る急斜面を降りていった。


上を見上げると、兜岩はわずかに頂上付近に茜色の照り映えを残して、闇の峰となってそびえている。

その麓に広がる岩棚を、波打ち際に沿って進んだ。


岬の先端を回って外海の側に出ると、以前に来た時はベルファトラバ海の荒波と風に洗われていた岸が、今は流氷に完全に蓋をされて静まりかえっていた。

白い石材のような氷は、沖から押される力で積み重なり、岩棚の上にせり上がっている。

これなら行けそうだ。


やがて、岩棚が途切れるところまでやって来た。

夏、ヒトデが群れていた場所である。

普段なら、この先は岩崖が迫り出し、荒海を泳ぎ渡る覚悟がなければ進むことはできないが、今は流氷の仮の地面がある。

そして、人魚の入り江はその先にあった。


アマリリスはほとんどためらうことなく、流氷の上に足をかけた。

はじめの数歩は、固い地面を歩くのと何ら変わりはなかった。

そのうち、舟の上を歩いているような沈み込みと、足元が覚束ない感触がしてくる。

けれど思っていたよりも全然揺れない。


なぁんだ、大丈夫じゃん。

そう思った途端、流氷と流氷の隙間を踏み抜いて片足がズボッと沈んだ。

急いで引き抜いたおかげで、どうやらブーツの中までは濡らさずにすんだ。


一見堅固な氷の地面に見えて、あくまでここは海の上であり、絶え間なく流れ動く浮氷を踏んで立っていることに違いはない。

ここでしくじって海に落ちたら、、

人魚のことも、ここに来ることも誰にも言っていないから、人知れず氷の底に沈んでそれっきりだろうな。


けれど多分そうはならないだろうという、自信というか、タカをくくったようなところがあった。

ここでは死なない、多分。


それでもアマリリスが何かを恐れたとすれば、それは(また)水に落っこちて、アマロックに発見されるという、奇妙な妄想だった。

一度ならず二度までも、、となればどんな呆れた顔で見られるか分からない。

またハダカで温めて欲しくてそんなことしたんじゃないの?

なんて言われたらどうしよう、それぐらいなら人知れず海の藻屑もくずと消えた方がましだ。


幸いそんなことにはならず、アマリリスは氷の回廊を渡りきることが出来そうだった。

岩壁の向こうに、人魚の入り江が見えてきた。


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