第229話 竜の岬と海の歌

風が止んで、海の方から霧が出てきた。

水の中にミルクの滴をパタパタと垂らしたぐらいの霞みで、人魚の母娘の姿は、輪郭はまだ見分けられるものの、表情や細かなしぐさはもう分からなかった。

アマリリスは膝に手を突いて立ち上がり、お尻についた雪をゆっくりと払った。

その間も視線は靄の奥、水面に一つになって浮いている人魚の影に据えられていた。


ずっと動かずにいたら、すっかり体が冷え切ってしまっていた。

両脇をぎゅっと引き締め、足踏みしてみたが、襟足からしじゅう冷気が忍び込んでくるような寒気がする。


人魚たちは冷たい水の中で抱き合ったまま、動かなくなってしまった。

霧も晴れる気配はない。


アマリリスはようやく諦めをつけて、寒々しい岬の台地を、実験所の方へと引き返していった。



アマリリスが立っていた兜岩の岬から、人魚の入り江を隔てた向かい側の岬は、臨海実験所の地図には『竜の岬』と記されていた。

なぜ竜なのか、どこにも注釈はなかったが、あえて由来を探ろうとも思わない平凡な岬で、アマリリスもこれまで足を踏み入れたことがなかった。


しかしもし竜の岬に立っていたら、アマリリスは人魚の入り江に、違うものを見ていただろう。

魔族が持つ、他者の知覚を操作する力、幻力マーヤーと総称される作用は、海の底の都や天空の城といった、実在しないものを見せる場合もあれば、実在するものを見えなくすることもあるのだ。



アマリリスがいなくなってずいぶん経ってから、西の空、雪雲の峰に、一羽の翼竜ヴィーヴルが現れた。

米粒のような大きさの影のまま、空の高い位置を何度か旋回した後に急降下し、竜の岬に舞い降りた。


巨大な翼の起こす風に巻き上げられた雪が朦々と煙り、岩壁からはがれ落ちた雪が、滝のように入り江に降り注ぐ。

鋭いナイフのような歯列を剥き出し、激しい威嚇の息を吐いても、ヴィーヴルは奇妙に全く音を立てなかった。

人魚たちは動じる気配なく、水面に漂うままそれを見上げていた。


やがて海鳴りの彼方から、人間には聞こえない波長で構成された一連の音の並びが届いた。

それは一種の信号であり、また特殊な歌でもあった。

人魚たちは流氷の下に潜り、外海へと泳ぎ出て行った。


ヴィーヴルは入り江の空間に飛び込む形で滑空し、無人の水面の上を何度か旋回してから、

巨大な翼を器用に操って岩壁の間をすり抜け、人魚のあとを追うように、氷原へと飛び去っていった。


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