第223話 ベルファトラバ海の巨人
実験棟裏手の岩壁から、アマリリスは静穏の海を眺めていた。
夏、スメルトの産卵期は海鳥で大にぎわいだったオシヨロフの内湾だが、冬場は火が消えたように活気がない。
渡り鳥の多くが今は北国を離れ、温暖な南の国に滞在しているのだ。
トワトワトに残留する鳥たちにとっても、冬のオシヨロフはあまり魅力的な漁場ではないらしい。
雪雲の底を映す水面は暗く、岸から転がり込んだ雪や氷を浮かべて、気が滅入るような寒々とした眺めだが、
岬の外側の海を埋める流氷は、湾内にはほとんど入ってこなかった。
厳冬の東トワトワトでは貴重な不凍海に、ごつごつした岩のようなものがいくつも浮かび、
波もほとんど立たないゆっくりした速さで動いていた。
全体のほとんどは水中に隠れているものの、近づいてきて足元の浅瀬を通過したりすると、その巨大さがよく分かる。
鉛筆で描いた黒丸みたいな可愛い目が両側についた丸い頭が通過した後、ちょっとした船ぐらいの幅がありそうな太さの、そしてとにかく長い胴体が延々続き、
最後にしゃもじみたいな平凡な尾が現れるまで、優に十数秒。
目測では、堤防を挟んで建つ臨海実験所の実験棟建屋と同じぐらいの長さがあるように思えた。
おとなしいクジラ?
超巨大アザラシ?
どちらでもない。
トワトワト沿岸や離島のごく限られた場所にだけ生息し、幻の珍獣とも言われる、ベルファトラバ海の
姿は似ていなくもないが、クジラのように深く潜水することはなく、アザラシのように敏捷に泳ぎ回ることもできない。
転覆したボートのように水面にプカプカ浮いて、浅い海底に生える大型藻類だけを食べて生きている。
系統的には、トワトワト周辺に何十種類といる海獣のいずれとも血縁関係はなく、
最も近縁な仲間は、遥か南の海に住み、やはり海草を主食とする、より小型の海牛だという。
性質は絵に描いたようなお人好しの平和主義者で、他の動物を攻撃するということがないし、これだけの巨体だから、天敵となるような生き物もいない。
海鳥が岩礁がわりに背中で羽を休めることがあるのを別にすれば、他の生き物との関わり自体が希薄な、沈黙の巨人なのだ。
オオカミの闘争の熾烈さ、グナチアの陰惨なまでの合理主義とは違う異界の一面だ。
海牛が、何か積極的な目的があって、あるいは他者との競合や抗争の結果として、この生き方を選んだとは思えない。
遠い昔、遥か南の暖海から迷い出て、この大陸の岸をずっと北上してきた祖先がいて、
長い時間の間に、途中の地域では生き残ることができず、跡形もなく消え失せてしまったが、
世界から忘れ去られたような北の果て、トワトワトの海にだけ、その末裔はひっそりと、姿形も変えて生き続けてきたのだ。
時に容赦ない苛酷さの自然は、彼らを追撃することはなかった。
とはいえ、栄養に乏しい食物に頼って巨体を維持し、運動能力も乏しく、産む仔の数も少ない彼らは、この地でも決して繁栄を謳歌しているわけではなかった。
餌場となる沿岸の浅瀬は、冬になると流氷に埋め尽くされ、海牛たちには近づくことができなくなる。
そこで彼らは群をなして沖に逃れ、冬じゅう飲まず食わずのまま、荒波に揺られて耐えるのだ。
やっと流氷が去る頃、生き残った海牛たちは痩せ衰え、肋骨もあらわ、まるで船板もはがれた難破船のような有り様になってしまうのだという。
そのなかでは、ここ、オシヨロフ周辺に住む群は、幸運に恵まれていると言えるだろう。
普段は外海で暮らしているが、流氷が来ると、彼らはこの変わった地形の内湾に逃げ込んでくる。
苦難の季節も、彼らはオシヨロフの水底に茂る海藻を食べることができるのだ。
それでも一家5、6頭の巨獣には十分でないが、ないよりはあるに越したことはない。
波がごく穏やかなことも、体力の浪費を抑えるうえで大きなメリットがある。
幻の珍獣なんて呼ばれて、いつかは本当に幻になってしまうかもしれない、先行き不安な平和主義者の、ひとまずの安住の地といえそうだ。
どうか彼らの静穏が、なるべく長く続きますように。
アマリリスは大海牛に別れを告げ、高台のほうへ歩き去った。
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