北の海の人魚
第220話 氷の森にて#1
カヤックの舳先で中腰になり、周囲をきょろきょろ見回しているヘリアンサスを、クリプトメリアは後席から満足気に見ていた。
予想通り、楽しんでくれているようだ。
クリプトメリアがパドルを操るたびに、滑らかな水面にさざ波の航跡が残る。
白い氷塊の森を縫って、カヤックは鏡のような海を滑っていった。
一般に海は広く平坦で、オシヨロフの内湾のような特別な場所を除けば、常に波立っているものだが、例外もある。
いや、ここにも波はあるのだが、3呼吸くらいかかってようやく通りすぎるくらいのうねりで、意識していないとなかなか気がつかなかった。
見渡す限りの水面に浮かべた流氷が、消波堤の役割をして、波の力を削いでしまうのだ。
白い岩礁のような流氷は、てんで好き勝手に散らばって水面の半ばを埋め、
やはりずっと見ていないと分からないくらいの早さで動き続け、くっついたり離れたりを繰り返している。
トワトワトに接岸する流氷は、極氷洋の氷棚が崩れて出来るのではなく、河川から海に流れ込んだ淡水が凍結したものだ。
それが、半島東岸を北から南に流れる沿岸流に乗って押し流されてくる。
見上げるような高さのものは少ないが、水面と同じ高さのボートに座っていると、結構な範囲の視界が遮られる。
海の上にいるのだが、何だか陸上で見通しの利かない藪にでも迷い込んだような錯覚にとらわれる。
クリプトメリアとしては、この厳寒の氷海そのもの、すなわち、
粘るようにうねる海や、氷山の森、氷と海それぞれの青が混じり合う色彩といったものも、ヘリアンサスにぜひ見せてやりたいと思っていたひとつだったのだが、
ヘリアンサスはそちらには全く興味を示さず、目を皿のようにして、アザラシの姿だけを探し求めていた。
思えば少年とはそういうものだった。
ひとたび強い目的意識を植え付けられると、状況が変わろうが横槍が入ろうが、当初の目標だけを追い続け、それ以外は何も見えなくなる。
それは、単に未発達な精神の狭量などではなく、実は高度の適応力のひとつの顕れかもしれぬ。
そんな面白い考えが浮かんだ。
ヘリアンサスにとって流氷の海は、すでに驚きでも目新しさでもなく、視界を埋める背景のバリエーションに過ぎないというわけだ。
一方でありふれた出来事や風物に妙に心を打たれて涙脆くなるのは大抵が老人だ。
彼らの感涙は、固結し干からびた地表を雨水が滑るようなもので、それを引き入れて自らを潤す精神の柔軟さは、既に失われているのであろう。
なるほどそういう認識の上で見渡せば、枯渇した老人の側を代表するクリプトメリアにとっても、
この、粉雪舞う曇天の下の氷海は、また違った見えかたをしてくるものだった。
だが歳をとることも、惨めなばかりではない。
上面でしか物事を見ない分、視野は広くなるのだ。
クリプトメリアはヘリアンサスにそっと合図を送り、右舷前方を示した。
遠く、開けた水面を隔てて、流氷が折り重なり山になっている辺りに、黒っぽい、動くものの姿があった。
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