第199話 目も眩む世界へと

とても見ていられないと思った。

けれどどうしても、視線を反らすことができなかった。


アマロックが雪を蹴立てて走り、低い姿勢から躍り上がりざま、子ジカの長い首に食らいついた。

勢い余って両者は倒れ、絡みあったまま雪の上を数メートルも転がった。

起き上がろうともがく子ジカを、アマロックが力づくで引きずり、地面に投げたおした。


雪煙の中で、子ジカのひょろ長い足が棒切れのように振り回される。

アフロジンが、サンスポットが、3兄弟のオオカミたちが、子ジカの四肢に腹に、一斉に食らいつく。

骨が砕け、皮膚が裂ける。

一瞬のうちに、子ジカはズタズタに引き裂かれてしまった。

そして子ジカが完全に絶命するよりも早く、オオカミたちはその肉や皮を食いちぎり、大急ぎで飲み下した。


一口、二口よりも多く口に出来たものはいなかっただろう。

鼻から血の泡を滴らせながら、怒号を上げて駆けつけた老母のヘラジカと、彼女に加勢する格好になった2頭の娘、

彼らに群がる女首領の群のオオカミたちがその場を飲み込んだ。


思いがけないところで、敵対者と食べ物に同時に遭遇した女首領の群は発奮し、彼らに襲いかかった。

オシヨロフの群は当然抵抗するが、圧倒的な頭数差の前に、応戦と言うより、退却を渋る格好にしかならない。

そこに鬼の形相のヘラジカが踏み込み、オオカミたちを蹴散らす。

もはや、アマロックにも、女首領にも、収拾がつけられなくなっていた。


アフロジオンと、女首領の群の一頭ーーやはり体の大きな、ケンカっぱやそうなヤツーーの間で、物凄い格闘が起こっている。

お互いに相手にのしかかろうと、前肢で打ち合いながら、牙をむき出し、食らいつく機会を窺ってぶつかり合っている。

すでに2頭の鼻面は血まみれだった。


アマリリスはとうとう、我慢できなくなって駆け出した。


かんじきがもつれてすぐに転んだ。

跳ね起きてかんじきを投げ捨て、なおも走った。

軟雪のせいで鈍る分はあるにせよ、人間の足はもどかしいほど重く、遅い。

アマリリスがもたもたしている間にも、死闘を繰り広げる2頭は次第に乱戦の場を離れ、吸い寄せられるように谷の縁へと動いていった。


歯をくいしばった。

この場所を、アマリリスは知っている。

あの先は、崖に近い急斜面、下を流れる川は、つい数日前に氷が割れたばかりだ。


ようやく追いついたアマリリスの目の前で、2頭は谷に転げ落ちた。

アマリリスは谷に沿って走りながら下に降りられる場所を探し、川の湾曲わんきょく部の隘路あいろ、向う岸の死と、こちら側の生の間に架かる橋となるはずだった場所で立ち止まった。


崖下で折り重なり、なおも咬み合っている2頭の姿が見える。

崖の上に、泥仕合の集団から離れて立ち、こちらを見ているアマロックと、女首領の姿がちらりと目に入った。


足元の急斜面を見据え、アマリリスは意を決して足を踏み出した。

谷底の川面は、氷が割れた後に新しい氷がはり、青黒い水流の透けて見えるところ、

氷が割れ残った白い部分、水に浸かった雪が凍りついた青、が入り乱れて複雑な模様を描いている。

それはまるで、未知の世界を上空から描いた地図のようだった。

アマリリスはそこへ目がけて、目もくらむような斜面を駆け下っていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る