第196話 今、失われようとしているもの

もはや勝負はついたと、

アマリリスのみならず、獣に心があるならば、その場にいたオオカミもヘラジカも皆、そう思っていただろう。


アマリリスは深いため息をついた。

殺されようとしているヘラジカをいたむ気持ちはあったが、仕方のないことだった。

よそからやって来たオオカミの群と、ヘラジカの群との間でのことで、アマリリスには無関係な、異界で無数に繰り返される営為のひとつに過ぎなかった。


谷の縁のこちら側では、3頭のヘラジカがなおも去りあぐねていた。

殺されようとしているのは、彼女たちの母親、ないし祖母で、長い経験に支えられた偉大な指導者であり、老父亡き後の、家族の守護者でもあった。

それが今、失われようとしている。

彼女に絶対の信頼を寄せていた娘たちは、その現実を、なかなか受け入れられずにいた。


2週間ぶりの獲物を目前にして浮き足立つ手下たちを制し、オオカミの群れを率いる女首領はあくまで冷静に、とどめを刺す機会をうかがっていた。



異変に最初に気づいたのは、少し離れた場所で彼らを見ていたアマリリスだった。

オオカミと囚われたヘラジカと、手前の安全な側のヘラジカとを隔てる谷の、上側の斜面に、一群の黒い影が現れた。


顔に吹き付けてくる激しい雪を拭い、アマリリスは懸命に目を凝らした。

影はひらひらと斜面を駆け下り、棒のように立ち尽くすヘラジカたちの真ん中に滑り込んでいった。


次の瞬間、ヘラジカの群は弾かれたように、三方に散った。


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