第195話 なおも奮戦する巨獣は

大地は分厚い雪に覆われているにも関わらず、その大きなヘラジカが足を踏みならすたび、

ズシン、ズシンと重い音が、アマリリスのところまで、はっきりと聞こえてきた。

接近を試みるオオカミたちを威嚇する、荒々しい鼻息も。


見るからに強大な、巨大熊手のような角を戴いた牡とは違い、牝のヘラジカは、体の大きさの印象が先にたち、

ともすれば鈍重で、身を護るすべの乏しい、おとなしい草食獣に思えてしまう。

けれどそれは大きな間違いだ。


狙いを定めた一頭に、女首領が率いるオオカミたちは前後左右から、吠え声ひとつあげずに襲いかかる。

しかしその牙が届くよりも速く、肉切り包丁のような蹄のついた脚が振り下ろされ、あるいは蹴りあげられ、

並みいるオオカミはいいようにあしらわれて、まるで手が出せずにいる。

こんな調子では、いつまで経っても仕留めることは出来なさそうに思えた。


しかしヘラジカのほうも決して余裕があるわけではなかった。

すでに、立っているのもやっとなほど消耗しているヘラジカは、このような激しい格闘を、長時間続けることは出来ない。

一方で2週間にわたる長期戦を攻め抜いたオオカミたちは、砦がいよいよ陥落しようとするこの時もなお、決して焦ってはいない。

ヘラジカの周囲を掠めるようにして、敏捷に跳び回り、執拗に、慎重に波状攻撃を繰り返している。


一時、攻撃の波が引いたのを見て、ヘラジカはよろめくようにして逃げ出した。

それもオオカミたちの狙いの内だったのか、間髪いれずに背後から迫る。

戦いの主導権は、もはや明らかにオオカミの手にあった。


オオカミたちの攻撃を一身に集めるそのヘラジカが、他の三頭から遅れはじめた。

二頭の成獣が、危険な肉食獣からーーあるいは、背後で行われようとしている惨劇からーー仔ジカを隔てるようにして、三頭は谷川の縁を回り、こちらに向かってくる。


湾曲部のところで、山側にも急斜面が迫り、通り抜けられる場所はひどく狭くなっていた。

一列縦隊になってそこを通りすぎてゆく3頭の後ろで、最後のヘラジカは、とうとう立ち止まってしまった。


それが、総攻撃の合図となった。


すべてのオオカミが牙を剥き、一斉に、一直線にヘラジカに向かっていった。

ヘラジカの肩に、腰に、オオカミが食らいつく。

ヘラジカは苦しげにいななき、激しくもがいた。


数頭のオオカミが振り落とされ、あるいはたじろいで離れた。

一方でヘラジカはバランスをくずし、前肢を折った格好で雪の上に突っ伏してしまった。

すかさずオオカミたちが、さらに勢いを増して襲いかかる。


ヘラジカは荒々しい吠え声をあげ、四肢を踏ん張り、食い下がるオオカミを引きずって、強引に立ち上がった。

丸太のような首を振り回すと、かじりついていたオオカミが振り飛ばされ、弧を描いて飛んでいった。



あまりにも強く拳を握りしめていたことに気づいて、アマリリスは力を緩め、こわばった指をほぐした。

ミトンの中で、掌はべっとり汗をかいていた。

ミトンの内側の毛皮にそれをなすりつけ、一層激しくなってゆく吹雪の先に目を凝らした。


谷川の湾曲部の、狭い小径を渡った先で、3頭のヘラジカは立ち止まり、こともあろうに振り返り、オオカミに倒されようとしている仲間を見つめていた。


多くの場合で、肉食獣に襲われ、かなり深刻な危機にある同胞でも、大型草食獣の集団が一致団結して立ち向かえば、救出できる可能性が高い。

オオカミとヘラジカに限った話ではなく、例えば獅子にとらわれ、身動きが取れない状態の水牛を、群の仲間が協力して救援し、獅子を撃退した、という例が報告されている。

巨大な体躯を持つ草食獣の集団は、潜在的に天敵を撃退する能力を持っているのである。


そのような互助の精神は、群の個々の構成員にとって、自身の危機に際して同胞からの救助を得られる魅力の一方、

同胞の救助のために自分が傷つく可能性も秘めた、諸刃の剣である。


同胞の危機を前に立ちつくす彼女たちは、人間ふうに言うなら、

救援の手をさしのべるべきか、非情に徹して立ち去るべきか、異界の論理からの、相反する教唆に対して自らの振る舞いを決めあぐね、逡巡じゅんじゅんしていた。

一方で、オオカミの群の只中で今まさに餌食になろうとし、なおも奮戦する巨獣は、彼女らを隔てる橋を渡って同胞に助けを求めに行こうとはしなかった。


女首領のオオカミが後足で立って伸び上がり、ヘラジカの大きく張り出した耳を捕らえた。


ヘラジカの動きが止まった。

それまではヘラジカがオオカミを振り回していたのが逆転し、オオカミによってヘラジカの巨体がじりじりと引きずられてゆく。

別のオオカミが鼻面に食らいつき、逞しい首に支えられた頭が、地面すれすれまで下がった。


後脚、脇腹と次々に食らいつかれ、ヘラジカはいまや引き倒されるのを待つばかりとなった。

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