第193話 遠い夏の名残り

本降りになりはじめた雪のカーテンを透かして、年老いたヘラジカは敵の位置を探った。

左の、ダケカンバの大木の下に2頭、右の河原に1頭。

もはや彼女たちの生の一部に同化してしまった、死を運ぶ獣の姿があった。


これくらいの頭数が、この距離に留まっているうちはむしろ安全と言える。

娘たちと分担して周囲を守りながら、彼女は今しがた雪に掘り終えた穴に、孫を促した。

穴の底は地表に達し、遠い夏の名残り、みどりを残す地衣類が顔を覗かせていた。


横に張り出した大きな耳を、時折はためくように振り動かして、積った雪をはたき落としながら、仔鹿は無心に、久しぶりのご馳走を貪っている。

その様子を眺めながら、年老いたヘラジカの脳裏では、野に生きる獣としては長命なその生涯を、遥かな幼少期へと、断続的に記憶を拾いながら遡っていた。


今そばにいる娘2頭を含めて、彼女は16頭の子をもうけ、その中の6頭は繁殖に成功した。

長年連れ添い、若い時は大羆すら歯牙にもかけない無敵の巨獣だった伴侶は、去年とうとう、数年越しで彼を追い詰めたオオカミの群に殺され、喰われた。


恐ろしい執念を発揮した女首領は、この冬再び彼女の前に現れ、最終目標を決定しないまま、追跡を続けていた。

どうやら今回も、オオカミたちは彼女の家族から、収穫を得ることが出来そうだった。


老女の右の腰には、6日前、女首領自身の牙によってつけられた傷があった。

仔鹿に目をつけた連中を追い払おうと、気を取られている隙に、背後を襲われたのだ。

大きな傷ではなかったが予後は悪く、まるで不吉な病毒を送り込まれでもしたかのようにその傷は化膿し、わずかながら、今も出血が止まらなかった。


年齢から言っても、彼女自身が繁殖することはこの先あり得そうもなく、

異界の論理は老獣に、表出型としての生存よりも、娘や、孫の形で保存された生体旋律の保全を優先目標とするように告げていた。


つまり、彼女が死ぬこと自体は大した問題ではない。

重要なのは生存ないし死ぬことによって、彼女の子や孫の自己保存にいかに貢献できるか、

目下の関心としては、迫り来る捕食者から、護衛として、最終的には盾となって彼らを逃がすことが出来るかにかかっていた。



仔鹿が穴の底の苔を平らげ、なおも物足りなそうに鼻をならした。

ここのところ、オオカミの襲撃のせいで思うように餌を探せず、老女も、彼女の娘2頭も空腹だった。

苦労が比較的、成果に直結するヘラジカの餌探しとは異なり、オオカミたちはもっと飢えていることだろう。


彼女が生き続けることにもうひとつ意義を見い出すとすれば、それによってより長い期間、敵に食料を与えず、うまくすれば飢餓によって、敵の数を減らすことができる可能性にあった。

そうすれば将来的に、彼女の子や孫に降りかかる災いを、いくらか軽減することが出来るだろう。


なおこの考え方を突き詰めると、最終的に死を迎えた後も捕食者に自らの肉体を与えない、つまり喰われない場所で死ぬ、という戦略も導かれ得る。

実際、彼女の親族にも、最後までオオカミやクマに喰われず、

死期を悟った時、山地の火山の谷にある、有毒ガスが充満する墓場に自ら分け入り、一生を終えた者もいる。


けれどそこまで幸福な死を望むのは、今や贅沢と言うものだろう。

何よりもまず、娘や孫の保全が大前提、最優先目標であり、その達成は、彼女の命と引き換えにしても、決してたやすいものではなかった。


雪が激しくなり、風が出てきた。

無慈悲な雪嵐ヴェーチェルが、すぐそこに迫っていた。

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