第190話 見えない罠#1

罠、と言ってもそれは、彼がわざわざ何かを設置するような類のものではなかった。


アマロックが行ったのは、北方面への巡回を最低限に減らすことと、なわばりの支配権の誇示のために、通常なら頻繁に行う臭いづけを一切行わない、という2点。

これによって、北から追われてくる者には、彼のなわばりの入り口が、オオカミのいない中立地帯のように見えるはずだった。


人間にとっては、白一色の雪原、無味無臭の大気としか感じられないものの中に、アマロックの五感は、縦横無尽に動き回った獣の痕跡を見出していた。


追われる側は、4頭のヘラジカだ。

3頭は成獣の牝、1頭は、今年生まれた子ども。

大人のうち1頭は、脚以外の場所にどこか噛み傷を負っている。

ただし、回復不可能な負傷ではないようだ。


追うのはオオカミの群。

ヘラジカの後をぴったりマークし、数日前に比べてさらに肉薄しつつある。

王手が迫っている印だ。

ただし追跡を行っているのは、彼の配下のオオカミではなかった。


人間の狩人と同じように、オオカミにも群によって専業とする獲物がある。

オシヨロフ群はアカシカ狩りの群であり、ヘラジカには滅多に手を出さなかった。

ヘラジカを狩るのは、北の女首領の群だった。


現実問題として、バイタリティー溢れる巨獣、ヘラジカを狩り倒すには、それなりの頭数と手間が要る。

6頭のオシヨロフ群が狩り倒すのは、全く不可能ではないものの、

メインの獲物とするには荷が重かった。


その点、潤沢な構成員を擁する女首領の群は有利である。

むろん彼らとて、このシカ族で地上最大の巨獣に、いきなり肉弾戦を挑む訳ではない。

そんなことをしていては、いくつ命があっても足りない。

何日も何週間も、目をつけた相手を交代で追い回して弱らせ、弱りきったところを襲うのだ。

非常な忍耐を要する狩りである。


アマロックの目論見どおり、北から追われて彼のなわばりに逃げ込んできたヘラジカの小群を、女首領率いる13頭のオオカミが追いはじめて、かれこれ1週間。

はじめは連中もオシヨロフ群に遠慮しいしいだったが、こちらの黙認の姿勢を読み取ってからは、思う存分の働きをして、彼らの仕事は詰めにかかりつつある。


もはや4頭のヘラジカが、連中を振り切って逃げ切る目はなかった。

1頭、ないし2頭が犠牲になる。

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