第186話 耳先と目鼻#2

一体いつの間に忍び寄ってきたのだろう??


オリーブがかった灰色の毛並みは、そうと思って見れば見間違いようもないが、

ぴったりと雪に伏せた姿は、雪原のうねりの背後にできた影のようにも見え、知らなければ見落としてしまうかもしれない。


耳先に一房の毛を立てた三角の耳、鋭利な刃物を連想させる雰囲気の、銀色の瞳。

くっきりした輪郭線の隈取り、豊かなたてがみ。

体には、顔の隈取りよりはやや薄い色合いで、優雅な斑模様が浮き出ている。


豹・・・じゃない、トワトワトには住んでいないはずだ。

かといって、いわゆるネコにしては明らかに大きい。


ヤマネコ、

それも、おそらくオオヤマネコという、特大サイズの猛獣だろう。

すごい、初めて見た。


幻力マーヤーの森にそういう動物がいるらしい、ということは聞いて知っていた。

けれど極めて警戒心の強い生き物なのだろう、

オオカミには出会いの運に恵まれるアマリリスだが、これまで姿はおろか、足跡すら、それと分かるものは見たことがなかった。


軽い興奮と同時に、かすかな違和感もあった。

その珍しい獣がどうして、生き物が活発になる夏場ではなく、困窮が著しく外出も思うにまかせない荒天の冬に姿を現したのかと。


オオヤマネコはじりじりと、ウサギににじり寄っていく。

その距離はわずかに7、8メートル。

けれどウサギは全く気づいていない。


オオカミが、体の作りや動作の面で、近縁のイヌに共通したところが多いように、オオヤマネコの動きも、基本的にイエネコのそれと同じだ。

体の柔らかさを活かして、雪のうねを蛇のようにすり抜け、獲物との距離を詰めて行く。

体の割に、四肢の掌が大きい。

ウサギと同じく、これがかんじきの働きをして、雪に体が沈まないし、音もほとんどしないのだ。


あと2、3メートルのところで、ヤマネコが躍り上がった。

それまでは厚みのない影で、今初めて形を形を持ち、影の中から飛び出して来たかのようだった。

一心不乱にエサを食べていたウサギが、まるで待ち構えていたような反射の速さで地を蹴った。


二頭の獣が疾走した後に、地面がはぜたように、小さな雪煙の柱が立った。

斜面の上から追い下ろす格好になったオオヤマネコと、ウサギとの距離はみるみる縮まっていく。

あと一歩で、オオヤマネコの爪が届く、というところで、ウサギはほとんど直角に向きを変えた。


ヤマネコもすかさずターンして、それでもだいぶん開いてしまった距離を追いはじめる。

再びギリギリまで迫ったところで、ウサギは二度目のターンをした。

それでもヤマネコは諦めない。

全身をバネのようにしならせ、驚異的な執念で追い続ける。

ウサギはすかさず、三度目のターンをしようとした。

しかし、今度は逃げ切れなかった。


鋭い鈎爪がウサギの真っ白な毛皮を引っかけ、雪に叩きつけた。

そこへ覆い被さるようにヤマネコが襲い、白ウサギの体は見えなくなった。

雪煙が収まり、ヤマネコが頭をあげたとき、その顎には、ぐったりしたウサギがくわえられていた。



ずっと息を止めていたことに気づいて、慌てて深呼吸した。


オオヤマネコが立ち上がって、その全身がよく見える。

イエネコよりいかつい感じのする肩、長くすらっとした四肢。

女王のような品格のある獣の、なりふり構わぬ懸命の狩りに、圧倒され尽くしていた。


きっと、オオカミたちと同じように、このヤマネコも苦しいのだろう、と思った。

巣に戻れば、おなかを空かせて待っている子猫でもいるんだろうか。

そうだ、だから必死の思いでエサを探して歩き回って、普段は全然姿を見ないのに、こうしてうっかり、オオカミや人間に見つかっちゃったのかもしれない。


今彼女を悩ませている獣たち、オオカミの群の窮乏とは無関係な他人事ではあるが、

苦労の末にようやく食べ物を手に入れたこの異界の隣人に、アマリリスは祝福を贈りたいと思った。


だから、雪の斜面をヤマネコめがけて走っていく2つの獣の姿を見て、心底びっくりした。

見回すと、両脇にいたはずのサンスポットとアフロジオンがいない。

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