第183話 苦悩や絶望から解放される場所

お尻がようやく浸かるくらいの湯に膝を折って座り、アマリリスは体を洗う海綿を握ったり放したり、漫然まんぜんもてあそんでいた。


酷寒の冬、屋外のドラム缶風呂は使えない。

こうして、ペチカの脇に毛布で仕切った小部屋を作り、タライでゆあみとなる。


夏は、冷えた体を暖めたくて、毎日のように風呂に入っていたアマリリスだが、

このとおり、純粋に身体の清潔を保つのが目的の入浴なると、(本人は無精のつもりはないのだが)そこまでの熱心さはなかった。


獣の毛皮をじかに着て一日歩き回れば、自分もうっすら獣くさくなってくるものだが、

とはいえ出会う可能性がある人間は老人と子供ばかり、色気づいてもしょうがない。

いいや明日で、、、と思い続けているうちに、ファーベルからやんわりと入浴を促されたりする。

けれど今日に限っては、肌に残る毛皮服の感触を、一刻も早く洗い落としてしまいたかった。


身体はとうに洗い終わって、何もすることがない。

湯は冷めてしまっていたが、至近距離にペチカがあるので、寒くはない。

むしろ、懐かしいカラカシスの蒸し風呂ハマムに似た感じがした。

目を閉じれば、まだ平和だった頃の、すずかけ村の共同浴場にいるのだと、自分に思い込ませることも出来そうだった。


けれど現実には、窓の外には粉雪が舞う酷寒の暗闇があり、

アマリリスの魂は、餓えやつれたオオカミと共に、

”人がいてはいけない場所”、トワトワトのほぼ全土を占める無人の異界をさまよっていた。



もうこんな思いはしないですむかと思っていた。

誰かが苦しむのを見て苦しみ、その苦しみを前になす術もない、無力と断絶の感覚は。


カラカシスでの最後の日々が頭をちらついた。

輝く陽射し、溢れるばかりの豊穣のカラカシス。

けれどおそらくはその豊かさによって、カラカシスはその大地に、醜悪な毒荊どくいばらをもはびこらせ、

人々はみなその上で、のたうち回って苦しむことになった。


一方で、寒流の波に洗われ、天には圧し潰されるような重い雲、霧雨と薄闇に閉ざされた森のトワトワトでは、

その寒さと貧しさ故に、災厄の種も育たず、苦悩も呻きも、じきに雨に洗われて、色褪せていってしまうのだろうと思っていた。



本当はこの地上に、苦悩や絶望から解放される場所などないのかもしれない。

冷めた湯の今さらの寒気のように、そんなイヤな考えが忍び寄ってきて、アマリリスはそれを追い払おうと、頭をぶんぶん振った。


そんなことがあっていい筈はない。

探さなければ。

せめて今は、目の前で進行しているこの悲劇を食い止めるために。

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