第176話 荒野の呼び声#1

時刻は午後4時ぐらいだったが、山々の峰にわずかな明りを残して、幻力マーヤーの森は夕闇に沈んでいた。

黒い繭のように枝を繁らせた冬の木々を透かして、白く浮かび上がる尾根を、漆黒の獣が疾走していった。


谷をいくつか隔てた彼方から、太く鋭い咆哮が響き渡る。


首領の呼び声だった。

それに応えた声は二つ、

輝くたてがみと、三兄弟のうちのどれかだ。


黒オオカミは応えなかった。

彼がいる場所は、彼らからまだ遠く、この吼え声の輪に参加する意味がなかったからである。


その吼え声は語彙も文法も持たず、いかなる形での言語でもなかったが、黒オオカミには、彼らの状況が手に取るように分かった。

普段、仲間同士の所在確認などで交わされる、長々と尾を引く音色豊かな遠吠えとは違い、

火を吹く山の地響きにも似た、凄味のある轟きには、仲間への呼び掛け以外に別の意図が込められている。

すなわち、他所者への恫喝である。



アマリリスにサンスポットと名付けられた、この黒オオカミが駆けていったのは、

アマロックのなわばりの南の外れ、オシヨロフからは遠く、アマリリスはまだ踏み入れたことのない場所だった。

周辺ではこれまでにも何度か、なわばりをめぐる問題が発生していた。


オオカミのなわばりは、あまり厳密に固定の境界線を持つわけではなく、

多くは尿による臭いづけや、足跡など行動の痕跡によって、大まかに掌握される領域である。

ある群と、他の群とが隣接して生活している場合、それぞれのなわばりの範囲がどうなるかは、

その時々での両者の力関係や、その土地への執着度合いによって、平和的にも、暴力的にも決定され得る。


誰の目にも明らかに、獲物が豊富で住みやすい土地は、当然両方の群が領有を望み、

お互いに譲らなければ、最終的には流血沙汰にまで発展する闘争によって決着をつけることになるだろう。


一方の群には価値があるが、もう一方の群にとっては相対的に価値の低い土地というのもある。

一方の群が主な獲物とする動物が、その土地に多く生息しており、他方の群はその動物をあまり狩らないケースや、

一方の群は、所有する土地が貧しく、その土地に生存基盤の多くを期待していて、他方の群は他に豊かな土地をすでに所有しており、その土地がなくても生きて行ける、といった場合、

前者の群は、より強硬な態度でその土地を占有しようとする一方、後者の群は、流血の代価を払ってまで占有するほどの価値を感じず、手を引く場合も多いだろう。


他に、双方の群にとって価値がなく、ただ捨てておかれる不毛な土地、というのも仮定としては可能であるが、

トワトワトであっても、高山の一部のような極端な環境を除いて、事実上存在しない。


どの群も、なわばりの外には他の群がおり、多かれ少なかれ、領土をめぐる緊張関係にあるのが普通である。

なわばりの所有をめぐって、時には激しい闘争を繰り広げ、あるいは危うい均衡の上にある。

そもそもなわばりの成立そのものが、周辺の群との確執の結果であるとも言えた。


なお、例外的にオオカミのいない土地としては、群と群の境界部分に発生する、一種の緩衝地帯が挙げられる。


獲物をめぐって競合するような群が、境界線一本を挟んで向かい合っていると、とかく紛争の火種が絶えない。

例えば、狩りをしていて、あと一歩で捕らえられそうな獲物が、他所のなわばりに逃げ込んで行く時、追手は境界線を跨ぐ最後の一歩で踏み留まるのかといったら、

オオカミはそんなに杓子定規な生き物ではないし、なわばりの境界自体が、そこまで厳密なものではない。


そのまま追い続け、ついに狩り倒したところへ、そこが自分のなわばりだと思っている別の集団が現れたら、非常に厄介なことになる。

恐らく、血を見ずにはすまないだろう。


異界の論理は、獰猛なオオカミに(オオカミに限らず、結局はすべての構成体に)、チャンスを簡単に諦めてはならない、

競合に安易に譲歩するべきではない、と教える。

一方で、闘争による負傷のリスク(多くの場合、それは死を意味する)を負ってまで、手に入れる必要のある生存資源は多くないのも事実である。


そこで、前述のような”割に合わない”衝突を回避するため、対立する群はお互いから距離を置こうとし、

結果的に、両者のなわばりの間には回廊状の空白地帯が生まれることになる。

そこは双方の群の影響下にありつつ、基本的には両者とも立ち入らない緩衝地帯である。


ちなみに、追われる側の大型草食動物も、オオカミのこのような生態を熟知しており、意図的にこの緩衝地帯に逃げ込む場合がある。

また、何らかの理由で群を追放された、いわゆる一匹オオカミも、こういう場所を縫うように移動して、自分を受け入れてくれる群を探していることが多い。

対立する群同士だけでなく、オオカミに関わりを多くの生物にとっての非武装地帯であるとも言える。



このように、オオカミの群社会のありかたは、少なからず人間の国家間の関係に通じる面がある。

なにぶん獣の世界の論理なので、友好や同盟の概念は存在しない、世代を跨がるような長期的戦略や理念は存在しない、といった違いはあるが、

原始的な土侯国家が割拠するような構図に似ていなくもない。


彼らは言葉も用いず、かなり複雑なその政治と外交を執り行っていた。

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