第162話 狩猟者の思惑#1
雄大な灰色の雪雲を映す、鏡のように静かなオシヨロフ湾を、クリプトメリアは手こぎのカヤックで横切っていった。
あるとすれば、オロクシュマへの買い出しか、研究対象である水棲生物の採集か、といったところだが、
いずれも夏期限定の用件で、冬場はほとんど、臨海実験所から外に出ることがなかった。
しかしそれは単に、彼が屋外に用件がないというだけで、トワトワトの厳しい寒さや
無精髭と呼ぶにもやや伸びすぎたごま塩の髭、
山の民の毛皮のアノラックを、アマリリスであればフードの顎紐まで念入りに結ぶところを、
通年着回しているフェルトのシャツの上に無造作に羽織り、凍てつく空気の中に、白い息を吐き出している。
こんな姿を見れば、小指の爪ほどもない生物を相手に、繊細な研究を続ける生物学者と言うよりも、トワトワトの豪放でがさつな漁師にでも見える。
アマリリスたちに対する、思いやり深く温かな表情とは違って、いま彼を取り巻く、荒涼とした自然に向けられる表情は厳しく、眼光は鋭い。
カヤックの足元には、黒光りするライフル銃が横たえられている。
しかし彼は、この苛酷な自然を愛してもいた。
これから冬の猟期に向けて、がさつで面倒くさがりのクリプトメリアには珍しく、事前の予行演習に向かうところだった。
トワトワトで、普段彼は狩猟をしない。
これもまた、その要がないからであって、射撃の腕前に不安があるわけではない。
かつては極地の無人島で、野性のトナカイを食糧に野外調査を行っていた時代もある。
少くとも、戯れにシギや雁を撃ちに行くような狩猟愛好家よりは、手際よく獲物を仕留めるだろう。
しかし目的が食用肉の確保であれば、自分の労力を割くまでもなく、
オロクシュマに行けば、アカシカからクジラまで、専業の猟師が仕留め、すぐ調理できるように加工されたものが、幾らでも売っている。
牛や豚が食べたいとなると、内地よりも割高につくが、衣食住に関わる全般が僻地滞在費として支給される身分としては、どうでもいいことだった。
もう一つの理由としては、銃を撃って獲物を射殺すること自体は簡単でも、
獲物を発見し、射程圏内におさめるまでの忍耐を要する行程と、事後の解体と運搬は、うんざりするような重労働なのだ。
一度だけ、たまたま実験所の裏手の台地に迷い込んだアカシカを撃った。
しかしまず皮を剥ぐのに一苦労、その後解体し、運び下ろすのに、たったこれだけの距離で、汗だくのへとへとになってしまった。
ファーベルは喜んでいたが、たかが食料、金を出せば手に入るもののために、あえてそんな苦労をする気にはなれなかった。
ただしそれも夏場のこと。
オロクシュマに船を出せない冬は、事情が異なる。
冬のはじめ、オロクシュマで買い入れた食料が、実験所の食糧庫にはふんだんにある。
食うには困らないが、肉類はすべて保存の利く塩漬けや薫製ばかりだ。
いくらクリプトメリアが食に無頓着とはいえ、ひと冬そういったものばかりというのも味気ない。
たまには新鮮な肉が食べたくなる。
そこで、冬の間に一、二度、ファーベル曰く””脚がついて動き回っている肉”を収穫してくることにしていた。
シカを撃つこともあったが、深い雪をかき分けて、行きも帰りも難儀な森をさ迷うより、もっと手軽な収穫がある。
海から訪れる獣だ。
オシヨロフ近辺の海には、年間を通じて定住しているアザラシやトド、大型の海牛もいる。
けれどそれらを撃っていたら、警戒心の強い野性動物はオシヨロフに寄りつかなくなってしまう。
そんなことになるのは、非常に寝覚めが悪い。
クリプトメリアが狙うのは、やがて流氷とともに、北極方面からやって来る、定住組とは違う種族のアザラシだった。
厳冬期、彼らはオシヨロフの目の前を、氷の小島に横たわったまま、次から次へと運ばれて行く。
そこへこっそりボートでこぎ寄せて撃つのだ。
撃ち取った後も、その場で解体する必要もなく、ボートで曳航して臨海実験所まで持ち帰ることができ、都合がよい。
問題は、弾丸が命中したものの即死せず、傷を負ったアザラシが、流氷を飛び降りて海に逃げてしまうパターンだ。
そうなると、瀕死のアザラシは流氷の底深く潜ってしまい、回収することは不可能だ。
これまでに2度、そういうことがあった。
自分の食卓を飾るために、それも必要不可欠というわけでもなく、ただ味覚を楽しませるためだけに、
彼らにも各々の都合があるであろう、平和な生物に弾丸を撃ち込み、結局ただ無為に殺しただけ、
そんな結果は何ともやりきれない。
そこでクリプトメリアは、狙ったアザラシの頭を確実に撃ち抜くために、
揺れる船の上からでも精確な射撃ができるよう、猟期に先だって、自分に射撃訓練を課していた。
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