第145話 演奏技巧#3

ぎこちない動作で戸口に現れたアマリリスは、やや青ざめ、中空を見据えるような、どこか思い詰めた表情に見えた。


寝間着の上にみすぼらしいショール、雪に濡れた室内履きのスリッパ。

この恰好で外に出たのだろうか。


この後の展開を予想して、クリプトメリアは潔く仕掛中の入力を取り消し、自動演奏用の譜面用紙を取り出しながら、にこやかに声をかけた。


「これはこれは、モグラの巣穴に、サンベリーナがお出ましだ。

人間世界の寝床では、よくお休みになられましたかな。」


自分ではエスプリを利かせたつもりだったのだが、クリプトメリアの呼び掛けを完全に無視して、

アマリリスはままっすぐ、部屋の奥のダルマストーブの方へ進んでいった。


ストーブの前の木の椅子に、横向きにどすんと腰掛け、背もたれの横木に腕を組んで顎をうずめた。

それっきり動かなくなった。



拍子抜けした思いで、クリプトメリアは自分の仕事に戻った。


ストーブに載せたヤカンがしゅんしゅん音を立てるほかは、室内は静まり返っていた。

湯気が冷たい窓に触れて曇り、流れ落ちる雫がいくつも筋を描いている。


この手の暖房は、実験棟の広く天井の高い室内を賄うにはいささか不向きで、

近寄れば、皮膚が焦げ付きそうなほど熱く、少し離れると、ほとんど暖かさが感じられない。

アマリリスの位置と、オルガンの前のクリプトメリアとでは、体感温度に大きな落差があるはずだった。


紙面に音符を並べはじめてしばらく、クリプトメリアははたと手を止めた。

当初入力するつもりだった旋律には、何と致命的な欠陥があることに気付いた。

主旋律の導入部とうまく接合せず、このままでは主旋律を壊してしまうのだ。


せわしない手つきで訂正した旋律を書き上げて、クリプトメリアは再び息を飲んだ。

その不備は、彼が先ほど手入力に四苦八苦して、何度もしくじっていた、まさにその一小節にあった。

しかもその一小節は、旋律全体に関して、当初思いもよらなかった新しい解釈を示唆していたのである。



わずか数小節の、それ自体は目新しくもない旋律を、クリプトメリアは暫く感嘆の思いで眺めた。

全く、こういうことがあるから旋律は面白い。


自動演奏装置の出来の悪い代用品としか思っていなかった自分の指先も、

意識下でこの誤謬と着想に気づき、精神に警告を与えようとしていたのだろうか。


書き上げた譜面を自動演奏装置にセットし、いくつかツマミやボタンをいじくって、主旋律との同期を調整してから、

ガラス玉オルガンに譜面読取から自動演奏開始までの一連の動作を指示するスイッチを入れた。

譜面が読取装置に吸い込まれてゆき、しばらくの間、オルガンが譜面の解析と、自動演奏の準備を行っていることを示す、橙のランプの点滅と、低い駆動音が続いた。


ちなみにこの工程は、それなりの熟練者であっても、一回で万事支障なく完了することは珍しい。

合成する旋律ごとに、多いときは数十にも及ぶ設定値を調整する必要があり、ミスや思い違いによって、どこかしら不具合が出てくるのが普通なのだ。


しかし今は、何とはなしに確信があった。

果たしてオルガンは一度も停止することなく準備動作を終え、緑のランプが点灯した。

やがて壁面いっぱいの巨大な機械は、低音のソロから始まる旋律を、静かに奏ではじめた。


それにしても、と、いつも思う。

自然にはこれほど美しい旋律が、無尽蔵に転がっているというのに、人間は何故わざわざこの上、人工の音楽を創作する必要があったのだろうと。

複数の旋律が重なりあい、徐々に複雑なハーモニーを構成して行く様子に、クリプトメリアはじっと聴き入っていた。


傍らに人の気配があった。

アマリリスが居たことを思い出して、クリプトメリアは振り向いた。

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