第144話 演奏技巧#2

その一方で、


こうしてたどたどしく音を拾いながら思うのは、

仮に自分が演奏技巧や聴音に秀でていたなら、やはり何かが違っていただろう、ということだった。


何かが出来るのと出来ないのとでは、見える世界が違ってくる。

ちょうど、地図製作者がいかに緻密な測量をもとに作製した鳥瞰図ちょうかんずであっても、それを眺めることと、実際に空を舞う鳥となって地上を眺めるのとは、全く別の体験であるように。


もし己の手足を操るように、思い浮かんだ旋律をそのままオルガンに演じさせることが出来る腕を持っていたら、

また、生体から再生される旋律を、いちいち分析装置にかけて譜面にして眺めるのではなく、直に聴いて構成や主題を把握できる耳があったら、

それらの技能は、単なる煩わしさの軽減とは別に、彼を新たな境地に導いていたことだろう。


例えば、ホヤの生体旋律を耳にして感じる美しさ、そしていかにもホヤの旋律らしい、と感じる印象。

あるいは、旋律を合成する過程で、試行錯誤の末にたどり着いた配列が、思いがけず信じがたいような明快さと機能美を備えたものになっていることに気付いて感じる驚嘆。


それらの感覚から、単にそう感じるという以上の、何らかの新たな知見や閃きを導き出すことが出来ていたかもしれない。

その才能は、彼と、生体旋律というものの関係を変え、大げさな言い方をすれば、オニキス・クリプトメリアという人格の形を変えていたに違いないのだ。



もちろん、彼自身は、今さら自分をそのように作り替えたいとは思わない。

彼は8割がた完成しつつある己の人生に概ね満足し、ささやかな矜持きょうじも感じ、

不幸な外的要因や、彼自身の怠慢や過ちによるいくつかの失敗も含め、――ある一点を除いては――その結果としてある現在の自分に、迷いや後悔はなかった。


オルガンの演奏のような、心身の柔軟さを要求される技能を習いはじめるには少々歳を取りすぎている、という現実的な事情は別にしても、

人間には分があり、確立された生きざまがあり、オニキス・クリプトメリアは、オルガンが弾けず和音の聞き分けられない生体旋律学者であって、それ以外の何者でもあり得ないのだ。


自分にはなかった新しい見地から、生体旋律研究の世界に革新をもたらし、近年奇妙な停滞を続けるこの分野の閉塞を打破する者が現れるとしたら、

それはやはり若者から、今はまだ生体旋律のことなど何も知らず、どのような人間となるかも定まっていない、幸福な者たちの間からだろう。


遥かな昔、カリステフス近郊の中流家庭に生まれたクリプトメリアが、一日じゅう虫籠と捕中網を携えて野山を駆けずり回っていた少年時代、

物質的には特に恵まれていたわけでもなかったが、

天高くそびえる夏の雲のように、自由と夢に満ち溢れ、未来には無限の可能性が開けていた頃のように。



母屋へ通じる渡り廊下から、ペタペタと素足履きのスリッパの足音がして、そういう未来の可能性のひとつが姿を現した。

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