第143話 演奏技巧#1

鍵盤と譜面を2、3度見比べて指の配置を確かめ、クリプトメリアは慎重にキーを押し込んだ。

5つの音がどうにか、正しい和音を響かせた。


クリプトメリアは満足して、次の音の組み立てに取りかかった。

幹音のニ、嬰音のヘ、オクターブ下のニ、、


彼が今行っているのは、複数の海棲生物から採取した生体旋律を切り貼りして、実験用の旋律を合成する作業の最終段階だった。

合成対象となる十数個の旋律は、すでにガラス玉オルガンの記憶装置に格納されており、

その”繋ぎ”となるとなる、最後の旋律を入力しているところだった。


無論、現代のガラス玉オルガンは例外なく、この旧型機種であっても、自動演奏装置を備えていて、

クリプトメリアも、生体旋律の合成にはほとんどの場合、鍵盤コンソールからの直接入力ではなく、そちらを利用している。


譜面を読み込ませれば、どんな複雑な旋律も1音も外すことなく、何度でも演奏できる補助装置のおかげで、

演奏技巧に関してはずぶの素人に等しいクリプトメリアが『工房博士』の名を与えられ、これまで数多くの重要な業績を残すことが出来たのである。

今日、生体旋律の研究をするために、演奏の技術や、和音を聞き分ける訓練は必要がなくなった。


そして本来、そうあるべきなのだ。

演戯名人マギステル・ルディの称号に遺るように、この複雑怪奇な機械を最初に発明した楽派が、演奏技巧と内面精神の修練を目的とする宗団だったとしても、それは歴史の学問にすぎない。


世界のことわりを追求する試みは、個人の技巧や精神に依存するような方法ではなく、誰にでも、繰り返し検証可能な手続きでなされなければならない。

それがクリプトメリアの信条であり、彼はその考えに、一度として疑問を感じたことはなかった。


それではなぜ今、自動演奏装置を利用せず、はなはだ信用のならない自身の技巧に頼っているのかと言えば、べつに宗旨替えをしたわけではない。

今入力しているのは、わずか6小節の、検証の主眼とは関係のない補助的な旋律の断片であり、

わざわざこのために、自動演奏装置への入力形式の譜面を書き起こし、装置にセットして読み込ませ、

という手順を踏むのがうっとおしかったからだ。


そしてたまにこうやって、演戯名人が見たら怒り心頭に発するような技巧をふるってみることで、

未だに運指法やら平均律やらが学問上の一大事であるかのように考えたがる、頭の古い、それでいて達成した業績は彼よりも遥かに少ない論敵たちを、愚弄しているような気分を味わえるからでもあった。


しかし、その我ながら子供じみた自己満足とものぐさは、あまり賢明ではなかったかもしれない。

この短い、さして複雑とも言えない旋律の入力を、クリプトメリアは既に2度まちがえてやり直していた。


ままならぬ、ものは焦れても立ちゆかん。

これでダメなら、大人しく機械演奏を使うことにしよう。


クリプトメリアの思想は先のようなものだったし、よもや機械と真剣に張り合うほど幼稚な精神の持ち主でもなかったから、

この鍵盤のお化けが、なかなか彼の意のままに動作しないことについて、軽い舌打ち以上の感想を持つことはなかった。

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