第107話 幻夜光

数時間が過ぎた、と思われた頃、広い谷を隔てた尾根の先に、ぼんやりとした光が現れた。


夜明けかと思って、アマリリスは狂喜した。

しかしすぐに、ぬか喜びであったことに気付いた。


夜明けのあかつきにしては変だ。

明るいのは空の低い部分だけで、空全体は一向に明るくなってこない。

色合いも、緑がかった、見たこともない妖しい光。

コンパスを取り出して確かめると、方角はほぼ真北だった。


その光は、横に広がったかと思うと小さくなり、いつのまにか緑、黄、赤と色みを変え、沸き立つように盛り上がったかと思うと平べったくなり、

自在に姿形を変えていく。

旅人を惑わす砂漠の蜃気楼のように。

生者を手招く亡霊の群れのように。



またも新たな怪奇の出現に、アマリリスは絶望的な気分になった。


来るんじゃなかった。

こんな途方もないことばかり次々に起こるなんて、やはり異界は、人間が踏み入れてはいけない場所だったのだ。


・・・そう、幻力マーヤー


この生き物のような光の正体こそ、魔族が備えるというあやかしの力、幻力マーヤーに違いない。

あの尾根の先で、キュムロニバス大入道か、ヴィーヴルか、ひょっとしたらアマロックが、

幻力マーヤーを使って、何か人間には想像もつかないようなことをやっているんだ。


アマリリスは、強風に耐えるときのようにフードをすっぽり被り、ぎゅっと目を閉じた。

見ちゃいけない、と思った。

見たら、気が狂う。

全部幻だ、消えろ、消えろと心の中で念じた。


しかし、見てはいけないと思うのに、アマリリスの瞳はすでに意思の支配を離れ、異界の力に操られているかのように、いつのまにかまぶたが緩み、北の空を向いている。

あやかしの光は、ちっぽけなアマリリスの抵抗を嘲笑うように、ますます鮮やかに、鎌首をもたげ、伸び縮みを繰り返し、その饗宴きょうえんは一晩中続いた。



未明、星空の彼方から、青黒い雲が現れ、濃い霧が瞬く間にあたりを包み込み、星も、あやかしの光も見えなくなった。


身も心もぼろぼろの有り様だった。

恐怖と寒さに、本当にぎりぎりのところで持ちこたえた気がしていた。


魔族に捕食されずにすんだのは、単なる幸運以外の何物でもないが、別の形の幸運もあった。

この日は晩秋のトワトワトにしては穏やかな夜だったものの、気温は零度近くまで下がり、

もしアマリリスにジャコウウシの毛織りのセーターがなかったら、凍死は免れなかっただろう。

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