あの山の向こう#1日目

第88話 すべりひゆの空

寒い朝だった。


白く煙る息を吐いて、アマリリスは幻力マーヤーの森と、その上に広がる山々を見渡した。


地形の起伏に沿って、朝霧の帯がかかり、高山の中腹までは靄に隠れている。

頭上の空も一面の曇り模様だが、西の山の稜線あたりには、うっすらと晴れ間も見える。


幸先のよい気がして嬉しく、また、自分の身支度にも満足して、アマリリスは微笑んだ。

今日は、夏にクジラ祭りの景品で獲得した、ジャコウ牛の毛織りのセーターを着ていた。

おかげで、晩秋の冷たい大気にも、まるで寒さを感じなかった。


森は、ダケカンバの鮮やかな黄色をはじめ、冬に葉を落とす木々が、紅葉も終盤にさしかかっていた。

半ば葉が落ちたせいで、樹冠から光が入り、舞い落ちた明るい色の葉がカーペットのように林床を埋め、

魔物の森は、いつになく明るく見通しよく、絵のように美しい。


足どりも軽く、アマリリスは進んでいった。

自然と、歌が口をついてこぼれた。


『わたしは、くちなし。

つよく豊かな香りの花です。


罪深いわたしの香りに、魅了される虫たちの多いことには

心をいためるばかりです。』


草花と、小鳥や虫との対話が続くウィスタリアの古謡だった。

比喩的に男女の恋愛を歌っているのだろう、ということはわかったが、

今一つ意味不明なところが多かった。


『くちなしよ、馥郁ふくいくたる貴婦人よ。

白く大輪に咲く艶姿あですがたうるわしい。


沈丁花じんちょうげ金木犀きんもくせい

世に香り高き花は数あれど、

鳥も虫も、新婚のしとねの純白の、

あなたの花弁に羽を休め、高貴な蜜を求めるだろう。』


鼻腔の奥で、あるはずのない花の香りを感じた気がした。


『わたしは、ひめゆり。

人里離れた山奥に、ひとり小さく咲く花です。


谷間のバラに囲まれて咲くわたしを、目に留めるかたがいないのが、

わたしはとても悲しいのです。』


『ひめゆりよ、清く可憐な娘よ。

私は知っている、露をまとい輝くあなたを。


遙か上空を飛んでいても、

木ねずみひとつ見逃さない、わたしの目には映る。

いばらの中に、たった一輪咲くあなたを、

私はいつも見ている。』



すり鉢状の谷の底に、一面に黄色の落ち葉の上に見慣れた姿を認めて、

アマリリスは斜面を降りて行った。



『わたしは、すべりひゆ。

真夏のひなたに咲く花です。


火のような熱と渇きの太陽を、大地を、それでもわたしは愛している。

年ごとに生まれ還りゆく、わたしのふるさと、わたしの生命だから。』


『すべりひゆ、慈愛と再生の叢林そうりんよ。

灼熱の大地に蔓を這わせ葉を繁らせ、とりどりに花開くあなたを、私は思い慕う。


あなたの葉陰に生まれ、あなたの蔓を辿り、あなたの茂りを透かして仰ぎ見た、紺碧の空を、

私は覚えている。』




アマリリスは笑顔で視線をあげた。


「ご機嫌だね、バーリシュナ」


「・・・あら、アマロック。」



あら、も何もなかった。


アマリリスは木々の茂りを透かしてアマロックを見つけ、近づいてきたのだったから。

なのに、アマロックに呼び掛けられてはじめて、そのことを思い出した気がした。


それどころか、、


今の今まで見ていたのは、本当にこのアマロックだったろうか?

別の、何か恐ろしい魔物がここにいなかった?

真っ黒な巨大な翼を休め、残忍な鈎爪と、ずらりと並んだ牙、

冷たく光る目だけが、アマロックと同じ、

そういう獣が。


そんな、寒気にも似たものが通りすぎた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る