第86話 月下の追憶#2 迷子の天使

もうひとつは、一昨日の朝、まだ夜が明けきらず、鳥も眠っているころ。

ファーベルは手洗いに起き、一階に降りた。


アマリリスは、昨日も帰ってこなかった。

寝室にはヘリアンサスの姿もなかった。

こんなに朝早く、どこに行ったのだろう?


ファーベルは眠い目を擦りながら、また2階に上がって行こうとした。

見ると、正面玄関のドアが少し空いている。


閉めなきゃ。

肩に羽織ったショールを掻き寄せた。

ドアに近づいていって、

はっ、とファーベルは立ち止まった。

ドアの隙間から見えた外側、玄関の前の礎石のふちに、ヘリアンサスが腰掛け、眠りこけていた。


ええっ、この寒いのに。

何してるの? アマリリスを待ってるの?

もう、待つのやめたんじゃなかったの?


複数の疑問が一斉に、頭を駆け抜けていった。

混乱の波が引いたあとで気づいたのは、おそらく、こうしてアマリリスを待っている姿は、

ヘリアンサスにとって、誰にも知られたくない秘密なのだろう、ということだった。


秋口に入ってから、ヘリアンサスは、夜になっても帰らない姉のために、兜岩に目印の明かりを上げたり、

夜通し寝ずに帰りを待っていたり、ということをしなくなった。

しかし、それはみかけ上のことだったのだろう。


毎回、秘かにこうしてアマリリスを待っていたのか、

今日たまたま、思い立ってこうしているのかは分からないし、別にどちらでもいい。

ファーベルの胸を打ったのは、

これが、アマリリスにもファーベルにも見せない、ヘリアンサスの心の真実の姿であり、

彼が心の中では、ずっと姉を案じ続けていたということだった。


ひとの秘密を盗み見るうしろめたさを感じつつ、一方でそれに対抗する欲求に負け、

ファーベルは息を殺して、眠るヘリアンサスをみつめていた。

だぶっとした寝間着の肩に、毛布の房を乗せ、くすんだ赤毛の髪に朝露の玉が光っていた。



今こうして、3人でベッドに横たわり、その時のことを思い出すと、その映像はさらに2つの連想をファーベルに引き起こした。


今から思えば、あれがきっかけだったのだ。


アマロックが渡りから帰ってきて、アマリリスがまた森に出かけるようになってからしばらく。

ファーベルとヘリアンサスは、兜岩のほうに貝を取りにゆき、帰り道、森から出てきたアマリリスと一緒になった。


オシヨロフの内浜から、臨海実験所までの短い距離の間、アマリリスとヘリアンサスが、ウィスタリア語で何か話していた。


言葉が違うと、会話の空気のようなものも違い、ラフレシア語で会話している2人とは、別の人格のような感じがする。

そこで交わされる会話が愉快な話なのか、真面目な話なのかも区別がつかず、

ファーベルはそういうとき、にこにこ愛想笑いを浮かべながら、2人の表情を見比べていた。


ヘリアンサスが何か言った。


アマリリスが何か答え、

どこか小悪魔的な雰囲気のある微笑を浮かべてファーベルをちらりと見た。


ヘリアンサスが紅潮して何か言い、それから、どこか悲しげな表情で、短く言葉をつけ足した。


それ以来、ヘリアンサスは兜岩に灯りを上げることも、夜通し姉を待つこともしなくなった。



最後の一つは、まだマグノリアにいた頃。

父に連れられ、郊外のどこかのダーチャ別荘に招かれて行った。

多分、クリプトメリアの仕事の関係の人なのだろう、その後も1、2回会ったような気がする。

ファーベルよりも年上の子供が3人いる家族で、とても楽しく遊んでもらった。


最近手に入れたというダーチャの庭は荒れていて、一部が菜園にするために掘り起こされている他は、草ぼうぼうで、蔦草がはびこっていた。


ラフレシア流のダーチャというと、一般に家庭菜園がメインだが、

以前の持ち主の時代、そこは、草花と小鳥を愛でる、ボレアシアの庭園風の場所だったのだろう。

からすうりやくずの蔦に覆われた下に、枯れかけたバラの植え込みがあり、水のない水盤の中には、落ち葉が降り積もっていた。


その片隅に、乳白色の石を削った、小さな天使の像があった。

小さな台座にちょこんと腰かけ、頬杖をついて前をじっと見ている。

2枚の翼は、力なく肩に掛かっている。


まるで、天界から地上に降りてきて、帰り道が分からなくなって途方に暮れている天使みたいだ、と思った。


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