第85話 月下の追憶#1 首領の歌
鈴を転がすような発音の、ウィスタリア語の囁き合い、時折挟まれる低い笑い声は、やがて汐が引くように鎮まっていった。
ファーベルは本を閉じ、枕元のランプを消した。
本を読んでいたつもりだったが、全然頭に入らず、別のことばかり考えていた。
ひとつは、今日の出来事。
夕方、フラリと現れたアマロックと一緒に、居間にいた。
はじめは、アマロックに本を読んでやっていた。
「戦いは大勝利でした。
捕虜になった敵たちが、首領の前に引き立てられて来ました。
クリムゾンの偉いお坊さんや、金持ちの貴族たちは、
ふるえあがって命ごいをしました。
命だけは助けてやることにしました。
そのかわりに、金銀財宝の山を手に入れました。
大喜びする手下たちに、首領はきびしく怒鳴りつけました。
”お前たち!
これしきの宝で、何を浮かれているのだ。
重い年貢に苦しみ、食うや食わずで、
生きるために子供を売るような哀れな百姓が、
中原にはまだ、六百万人もいるのだぞ!!
彼らすべてを解放し、貴族も、農民もない
自由の国を作り上げるまで、
俺達の戦いが終わることはないのだ”
手下たちは、恥ずかしさのあまり、死にたいほどしょんぼりしました。
けれど、首領の心の優しさと気高さに感動して、
まるで、新しい命をもらったような気分になったのです。」
ラフレシアの圧政に抵抗して反乱を起こした、中原地方の土侯が主人公の短編だった。
国家が求める忠誠とは相容れない題材だが、ラフレシア人なら誰でも知っている、人気の高い逸話であり、
ファーベルがマグノリア市にいた頃のラフレシアはまだ、こういう本の存在を許すおおらかさを持っていた。
アマロックが、低く歌い始めた。
「船は漕ぎ出す、
浅瀬の
勇壮な船団は、漕ぎ出して行く。
勇者は美しい姫をはべらす、
先頭のガレィに座し、異国の姫を、
その胸に抱いている。
新婚の美酒に酔って。」
これもよく知られた民謡だった。
もの悲しい調子のものが多いラフレシアの唱歌の中で、雄大で力強く、堂々とゆるやかに歌われる曲だ。
ファーベルは読み手を休め、目で文字を追った。
そして、ああ、この物語の歌だったのか、と気付いた。
歌詞に歌われる勇者とは、ラフレシア軍と果敢に戦い、最後には破れた、反乱軍の首領のことなのだ。
そう思って聞くと、雄大な中にどこか、主人公の運命の悲哀を感じさせるような気もする。
新しい発見に軽い興奮を覚える一方で、怪訝に思った。
ついこの間まで、アマロックは字が読めなかった。
しかし、彼が文章を先読みしてこの歌の連想を引き出したのは明らかだった。
夜の川にこぎ出す船も、首領の胸に抱かれる異国の姫も、出てくるのは、ファーベルが読み上げた部分よりもまだ先なのだ。
いつの間に字を覚えたのだろう?
勝手口のベルが鳴り、アマリリスが入ってきた。
おかえり、と声をかけたが、アマロックの歌にかき消されてしまったか、返事はなく、ファーベルとアマロックの向かいのソファに、どさりと身を投げ出した。
疲れているのだろう、ひどくふさぎ込んでいるように見えた。
まるでお構いなく、首領の歌は続いた。
「手下たちは、陰口をたたく。
彼は独占するつもりだ、美しい女を。
見よ、あのやに下がった様子を。
まるで・・・」
『・・・ψа・・・ε・・фψш・・・гч・・・』
えっ?
ファーベルは耳を疑った。
「勇者は聞いていた、彼らの不平や嘲笑を。
美しい姫を抱いた、強大な首領は聞いていた。」
『Λ ζλпχ; νχд:・・・цχспδ; к・・・』
アマリリスが、アマロックにつられるように、同じメロディを口ずさんでいた。
放心したように、空中に視線を据えたまま、ひょっとすると、自分が歌っていることに、気づいてないようにも見えた。
メロディは同じでも、歌詞は違う。
アマリリスの故郷のことば。
ウィスタリア語にも、首領の歌の歌詞があるのか。
もっとよく聞きたいと思った。
けれど、この呟くような歌いかただと、アマリリスの声質は聞き取りづらい。
「河よ、母なる偉大な大河よ。
そなたの前に、人間はかくも卑しく浅ましい。
河よ、天地を貫く悠久の流れよ。
そなたの前に、諍いなどふさわしくない。」
やがて、アマロックの声の感じが、微妙に変化した。
すると、それに呼応するように、アマリリスの声も、はっきりと大きく、凛とした響きを帯びてきた。
『・・・Пυαοσ: дτ μ юυтβκдτ; дюο νъωωйюжυ ...』
「何を悲しむことがあろうか。
今も、これまでも、これからも
我は勇猛なる戦士である。
真に自由な、偉大な首領である」
『・・・сαдμ; Гэψκ β еιёвбдг гι Щτвчκяε?
Кдаδщёжλрφφθ бργыётβзх; Ъоκεфγτ ιφε::
у σутеаζψκλκа・・・』
それは、実際にアマロックがアマリリスを導き、その歌声に生命と力を与えているのだと気づいた。
「河よ、天地を貫く悠久の流れよ。
我ら、自由の士からの贈り物を受け取るがよい、
そら・・・」
『・・・Одсδкгυ Шб Нпοпη: Ыβ Ё Изоиеχхβащ!
κβх:: Еσξёр ζπоεедд υг υ σθνλκюιи』
日が落ち、室内は急に暗くなってきていたが、ファーベルはランプをつけることもせず、
暗い天井に向かって朗々と響く2つの声に聞き入っていた。
ただそれだけのことではあったが、その光景はどこか、衝撃的と言ってもいいような、強い印象に満ちていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます