第35話 驟雨のあと

シカは懸命に泳いだ。

やがて、アマリリスの左手の浅瀬にたどり着き、水の中に沈んでいた体が、水面をざばっと割って姿を現し、水しぶきがきらめいた。

オオカミは遅れている。

湖底にまだ足がつかないのだ。


シカは、ひと蹴りごとに数メートルも跳躍しながら浅瀬を駆け抜け、岸に躍り上がった。


依然2頭のオオカミは水と格闘している。

岸を回ってくるアマロックたちの姿はまだ見えない。


蹄が地面に突き刺さる音を響かせて、シカはこちらへ向かってくる。

大きい・・・


すぐ目の前でシカはアマリリスに気付き、びくりとして棒立ちになった。

それも一瞬のことで、すぐにまた駆け出した。

ぬかるみを避けてこぶから瘤へと跳び跳ねながら、あっというまに森の奥へ駆け去っていった。


ようやく2頭のオオカミが岸に辿り着き、ほぼ同時にアマロックとサンスポットが姿を見せた。

ほどなくアフロジオンたちも到着した。


濡れねずみになった2頭も、岸を回ってきた4頭も息を切らせ、サンスポットがシカの足跡を嗅ぎ回っているほかは、動こうとしなかった。


アマロックの前肢が地面から離れ、暗灰色の毛皮が霞のように消え、人間の姿になった。


「やれやれ、逃げられたか。」


悔しそうな様子でもないその声は、こういった失敗も日常茶飯事なのだと語っていた。

全裸の姿を前に目のやり場に困って、アマリリスは黙ってシカの消えていった方を見ていた。


アマロックは腰に手を当てて自分の姿を見下ろしてから、


「暗いね。何やってんの。」


『別に。いつもどおりよ。』


「何?」


聞き返されて、ウィスタリア語で返事をしていたことに気付いた。


「・・・雨が止むのを待ってたの。」


「もう止んでるよ。」


本当だ。


いつしか霧が晴れ、振り返ると湖水全体が見渡せていた。

死んだような灰色の水面に光が入り、夕日にオレンジ色に照らされた雲の底が写り込んだ。

鳥のさえずりも戻ってきていた。


今日もまた、生き延びることが出来たようだ。


「さて・・・帰ろうかな。」


アマリリスは立ち上がり、大きく伸びをした。


「雨が上がるのを待ってたんじゃないのか?」


「そうよ。」


「――そうか。じゃ。」


「あ、まって」


行きかけたアマロックを呼び止めた。


「オシヨロフはどっち?」


「またかよ。」



臨海実験所に戻ると、心配して待っていたファーベルとヘリアンサスに迎えられ、

熱いお風呂と食事ですっかり暖まったアマリリスは、その夜はぐっすり眠った。

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