第11話 ガラス玉オルガン

二日ぶりに雨が上がり、爽やかな朝日が、窓から差し込んでいた。


赤鉛筆を片手に分厚い譜面を睨み付けたまま、クリプトメリアは、ファーベルが朝食と一緒に置いていったチャイのカップに手を伸ばした。

その眼光は鋭く、鬼気迫るものがあって、さっきから側に立っているアマリリスが、声をかけられるような雰囲気ではなかった。


だがその左手が、本当は彼の右側にあるカップを取ろうとして、

何もない左側をさまよっているのを見て、アマリリスは思わず、クスリと笑い声を漏らした。


ようやくアマリリスに気付いたクリプトメリアが、いつもの人の良さそうな笑顔を見せた。


「おお、バーリシュナお嬢さま

気付かなかったよ。」


「すみません、邪魔して。」


クリプトメリアは眼鏡を置き、大きく伸びをしながら首を振った。


「何も何も。我がケイオス混沌の城へようこそ。」


確かに凄まじい散らかりようだった。

デスクの上は膨大な量の紙と書籍で埋め尽くされ、海に面した窓際と、中央の二列になった実験台やその周辺は、得体の知れない溶液を湛えたガラス器具や顕微鏡、その他、何に使うのか見当もつかない機器で埋め尽くされている。


この大きな部屋は、短い渡り廊下で臨海実験所の母屋と繋がった半二階の建屋で、入口の敷居の上には、ダケカンバの丸木を削った板で『実験棟』と掲げられていた。


母屋が、恐らく数十年以上昔の様式で整えられた、簡素ながら趣のある内装なのに対し、

この実験棟は、荒削りの梁が頭上で縦横に交わり、床はむき出しの石敷きで、明らかに実用本位の空間だった。


そこに出現したケイオスを面白そうに眺めていたアマリリスの目が、部屋の手前側の壁に接して据えられた、巨大な機械に戻ってきた。


「これの音だったんですね。

ガラス玉オルガン、ですよね?」


「そう。よく知っているね。」


「学校で習いました。見るのは初めてですけど。」


まるで教会のイコノスタスのように、壁のほぼ全面をふさいだ巨大な機械の、中央部分が演奏台で、

立って演奏するにもやや高い位置に、3段になった鍵盤があり、奇妙な形の、長い支柱に支えられたスツールの足元にも足鍵盤と、いくつかのペダルが並んでいる。


鍵盤の左右には、おびただしい数の音栓が並び、右側、演奏台からは手の届かない、クリプトメリアが書き物台にしている袖机の上の壁面も、

様々なボタンやレバー、調整器で埋め尽くされている。


演奏台の上の壁面は、これまた目が眩むような数と種類の計器や表示装置が取り付けられている。

演奏台の左側は右側とはおもむきが違い、蒸気機動車の動力室のような、鉄と真鍮の無骨な塊だ。

そしてそれら全部の上、高い吹き抜けの天井に届きそうな高さにのし掛かるのが、この機械の心臓部であり、

鋼鉄のパイプとハッチで組み上げられた、巨大な内臓とでも言おうか、実に奇怪な、似たような物を、これまで一度も見たことのない姿をしていた。


「ガラス玉、っていうから、何かこう、もっとキラキラしてるのかと思ってました。」


「同感だ。

こんな不相応な名が付いているのは、マギステル楽派の最初期の思想の名残でね。

設計音符の概念を表現するのに、ガラス玉を使った試作機を作っていたらしい。

今じゃ、ガラス玉とは何の関係もないよ。」


「それにしてもすごい、大きなオルガン。

これを使えば、何だって作れちゃうんですよね?」


「まぁ、人間の魂以外のものはね。

とはいえ、理論上の話だ。

ばかでかく見えるが、これでも宇宙の全物質を表すには遥かに音が足りない。

こいつは生体旋律の解析と合成に特化した型だが、ほんの小さな蠕虫の生体旋律の再生にも、最大出力で何時間もかかる。

現在の技術で実装可能な旋律は、この宇宙の、ごく一部にすぎないよ。」


「そっか、動物の研究をされてるんでしたね。」

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