第8話 いつもの幻覚?

その魔族に、最初に出くわしたのはクリプトメリアだった。


赴任して2月目、ちょうど今ごろの季節、あのイルメンスルトネリコの木の近くで、何をするでもなく、強いて言えば夕暮れ時の海を眺めていた。


細かく観察するまでもなく、クリプトメリアには一目で魔族とわかった。

さすがトワトワト、こんな間近に魔族が出没するのか。

そう思った程度で、クリプトメリアは悠然とタバコをふかしていた。


日没まぎわの薄暗さの中でもそれと分かる、金色の目が彼を見た。

特に危険な雰囲気は感じられず、クリプトメリアは気付かぬふりでその場を離れた。

山でクマやオオカミに遭遇したのと同じことだ。

これまで臨海実験所に被害があったとも聞かないし、そう神経質になることもないだろう。


一応、例の陰気な大学院生に聞いてみた記憶があるが、

いつもの幻覚かと思ってた、とかなんとか、曖昧あいまいでとんまな返事が返ってきて、

クリプトメリア自身あとになって呆れたことに、研究に没頭し始めた彼は、その魔族についてファーベルに警告しておくことも忘れていた。



それから数ヵ月、トワトワトでは早くも紅葉の始まった頃。

ぶっとおしの実験が終わり、2日ぶりに実験室から出てきたクリプトメリアは、一刻も早くベッドに入ろうと階段を上りかけて、

いつになく賑やかなファーベルの声に何となく振り向き、我が目を疑った。


「くっふっふ、わしはねずみばあさんだ。

おまえをー、くてやるぞ!

ぎゃーおー!」


膝の上に、マグノリアから持ってきた絵本を広げ、その登場人物になりきって奇声を上げるファーベルの傍ら、ソファーにあぐらをかいて、見知らぬ少年が座っている。


まぼろしか? おれもついに、幻覚をみるようになってきたのか?


クリプトメリアは、大きなペチカの周囲を巻いて二階に上がる階段から身を乗り出し、目をしばたいた。

少年が物憂げに、まるで数年来の客人であるかのような態度でクリプトメリアを見上げ、

その金色の瞳を見てはじめて、以前に海岸で見た魔族と、目の前の少年とが結びついた。


「なにをー、まけないぞ。

ぜったいにぃ、ごめんなさいなんて言わないもん!!」


目から光線を出して焼き殺そうとするかのような、クリプトメリアの視線をさらりとかわし、その魔族は、ファーベルが熱中する絵本に目を戻した。



それからちょくちょく、その魔族は臨海実験所に姿を見せるようになった。

実験棟にこもっていると、普段はしんと静かな居間の方から、あるいは窓の外の船着き場から、ファーベルの甲高い笑い声が聞こえてくる。

見に行くまでもなく、あの魔族と戯れているに違いなかった。


アマロック、どうにも耳に馴染まない、魔族らしい名前。

いや、そんな印象も人間ならではのことで、本来、魔族に名前などない。

彼が名乗ったそのひと続きの音の並びは、例えば大型動物の行動を研究する学者が、彼の観察対象の個体に、イワンだのペテロだの便宜的な名前をつけるようなものだ。

呼び掛ける符号ができたところで、少しも、魔族が人間にとって親しみ易い存在になるわけではない。


とはいえ、無下むげに追い払ったりするのは、ファーベルのことを思うと気が咎めた。



十分に観察し、確信を得た上で、クリプトメリアはその『交際』を黙認することにした。


今日に至るまで、ファーベルには伏せてあることだが、

魔族は、人と獣の中間とは言われつつ、実際には純然たる獣であり、それも、人に馴れない類の獣である。

しかし、きわめて特別な条件下では、決して危険な存在ではなくなる、ということを、彼はその専門分野のある論文によって知っていた。

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