第5話 ノノとフィオレット
「じゃあ、窓拭きと床掃除をお願い。知ってると思うけれど、トゥオーノ侯爵はとても綺麗好きだから、チリ一つ残さないように」
メイドの上役らしい女性はそう言って、私に掃除用具を突きつけると、忙しそうな様子でどこかへ歩き去ってしまいました。
廊下に設えられた細長い鏡に、髪を結い、掃除用具を抱えた自分の姿が映ります。
サイズが合っておらず窮屈さはありましたが、それでも、どこか心躍っている自分がいるのが分かりました。一度でいい、メイド服を着てみたいと、昔から思っていたからです。王女という立場上、今までその願望を誰かに言ったことはなかったのですが、こんなタイミングで夢が叶うとは思いもよりませんでした。
――などと、悠長なことを言っている場合ではありません。
私は今、敵地に潜入していて、メイド服もそのカモフラージュなのです。
私は先ほどの女性に渡された掃除道具を確認しました。
窓拭き用の雑巾と、バケツと、掃き掃除用の箒と……、あら、あとひとつはなんでしょう。一見、巨大な団扇のようですが、金属製で、扇ぐには不向きに見えます。表と裏を交互に見比べますが、用途が分かりません。誰か参考になる人がいればと思いましたが、今私がいる廊下には他の人影はありませんでした。
「ノノ様」
そこで、ふと後ろから声をかけられて驚きます。
振り返って、立っていたのはローレン様でした。手に抱えた本の山は、なるほどいかにも『仕事をしている感じ』を演出していました。使用人風の服は、王都での装いともまた違い、これはこれでなかなかに趣深いものがあります。
「ローレン様もいらっしゃったのですね」
「ええ、あまり離れるとお互いの場所がわからなくなってしまいますから。ところで、何かお困りごとですか?」
私は手を後ろに回してから答えました。
「いいえ? ちょうどお掃除を任されて、今から始めようかと思っていた所です」
「お掃除を」
「ええ」
「ちりとりをクルクル回しておられましたが」
「…………ちり……とり……? ええ、ちりとりを回していました」
「強がらなくていいんですよ。使い方が分からなかったんでしょう?」
流石の鋭さ。これだからローレン様は侮れません。ちりとりと言うらしい道具を前に持ってきて、顔を隠します。さいわい、ちりとりはうってつけの形状をしていました。
「すみません。こういったこととは縁遠い生活をしていたもので……」
「ああ、いえ、責めているわけではありません。ただ少し面白かったので」
「意地悪ですよ、もう。世間知らずとお思いかもしれませんけれど、教えてもらえればちゃんとやります。できますから」
私がそう言うと、ローレン様は優しく微笑んで、ちりとりが掃いたゴミを集めるための道具であることを教えてくれました。言われてみれば、誰かが使っているところを見たような気もして、少し悔しい気持ちになります。
ローレン様はそこで、声を落として仰いました。
「ところで、本名で呼び合うのは危ないかもしれませんね。顔は割れていなくても、我々の名前はよく知られているでしょうから」
「言われてみればそうですね」
まさか王女と先進魔術研究室長が、使用人に変装している――、とまでは思わなくても、聞き覚えのある名前から勘繰られることはあり得ます。あるいは、とっさに名前を聞かれることだってあるかもしれません。私たちは少しだけ悩んだ結果、ロバートとノーラと名乗ることにしました。
「ではノーラさん。とりあえずは、仲間と連絡を取りに行ったシィアを待ちましょう。屋敷内部の間取りも把握しているでしょうし、マルドゥークの居場所も判明しているはずですから」
「私、あそこだと思うんです」
「――え、えっ?」
私が指差したのは、グラスターク邸本館1階、廊下の突き当たりにある一枚の扉でした。ローレン様は驚いた表情で、首を傾げられました。
「見張りも立っていない普通の部屋に見えますが……、何故?」
「先ほど配膳台を持った使用人がドアをノックして、一瞬だけ中が見えたんです。甲冑の手がのびて、トレイを受け取ると、すぐに鍵が閉められました。中は石造りの簡素な壁で、それ以上は見えなかったのですが、少し怪しいと思いませんか」
「そ、それは……、確かに怪しいですね。いや、さすがノノ様……」
「あら? ロバートさん?」
「失礼しました、さすがノーラさんです。正直、地下階段のイメージとは違いましたが、なんの変哲もない部屋の向こうというのは、むしろ説得力がありますね」
「そう思います。もちろん無関係の部屋という可能性もあります。あるいは監禁されているのはマルドゥークだけではない、とかも」
「……確かに」
表に衛兵が立っていないというのは侵入する側としては好都合――、扉さえ開けてもらえれば、押し入ることは可能でしょう。しかし目的の場所でなかったり、中の人数によっては面倒なことになってしまいます。
マルドゥークが幽閉されている地下へは、タイミングを見計らって突入する必要があります。こちらの陣営にローレン様がいらっしゃるからと言って、単純な強行突破は愚策。我々の存在に気づかれるのが早いほど、王都への侵攻も早まると心得なければいけません。やはり、シィアさんとの合流を待つのが先決かもしれません。
ローレン様も同じ結論に至ったのでしょう。一つ息をつくと、「注意を払いつつ、もう少し様子を見ましょう」と仰いました。
私は頷いて同意を示します。
そこで、反対側の廊下から足音が聞こえてきました。
私は慌てて清掃作業に戻ろうとしますが、ローレン様が足音が聞こえる先を凝視したまま、固まっていることに気づきました。つられるように私も視線を向けます。
歩いてくるのは2人の男性で、何か話し込んでおり、こちら側には注意を払っていない様子でした。
ローレン様は少し後にハッとされ、壁に体を向けて本を開きます。
結局、男性2人は最後までこちらには視線を向けず、途中の角を折れて別の方向に向かってしまわれました。小声で尋ねます。
「まさか、お知り合いですか」
ローレン様は、しばし無言で眉間を揉んだ後、苦々しげに仰いました。
「……ドーソン・F・ナラザリオです。何故ここに居るかはさておき、少し急いだほうがいいかもしれません」
○
細路地のような通路を抜けた先は、薄暗い倉庫でした。
普段滅多に入ることのないその倉庫は、父――、トゥオーノ・グラスタークが収集した骨董品を保管している場所です。
私の背丈ほどもある壺がそびえ、甲冑が立ち並び、武器が飾られています。
そう言えば4年前、ロニーお兄様が悪質な骨董商に引っかかりかけたことがあった――、などと思い出したところへ、足音もなく人影が現れました。
「ご無事で何よりです、フィオレット様」
その相手は、私と同じ服装と、同じ顔をしていて、声色までそっくりでした。
部屋が暗いこともあり、鏡に話しかけられているような感覚になります。
「貴女も、無事でよかった。屋敷に何か変わりは?」
「いいえ、特には」
「そう。ありがとう」
私たちはそうとだけ言葉を交わすと、身を捩るように立ち位置を入れ替えました。
壁にかけられた額縁をずらし、影武者が細い通路にするりと入ります。そして、あっという間に姿を暗闇の中へ消してしまいました。
果たしてこの通路がいつから用意されていたのかは分かりませんが、今回ばかりは助けられました。額縁を軽く撫でてから、私は扉の方へ向かいます。
骨董品の間の隙間はそう広くなく、何度もドレスのスカートが引っかかりそうに――、
バタンッ!!
という大きな音が響いて、私は悲鳴をあげそうになりました。
突如、薄暗かった倉庫に外からの光が差し、宙を埃が舞います。骨董品の隙間から入り口の方を見ると、逆光ですが見慣れたシルエットが立っていました。
2歳上の姉、ジョアンナ・グラスタークでした。
「いるんでしょう、フィオレット!」
大きな声が倉庫にこだまし、ズカズカとした足音が響いてきます。
私はバクバクと脈動する左胸を押さえながら、一つ息を吸って、ゆっくりと吐きました。姿勢を正して、向こうからやってくる姉を待ちます。
「ああ、やっぱりいたわね。こんな場所で何をしているの? うわ、やだ、埃臭い」
「何もしていませんよ、お姉様。上質な美術品を眺めているだけですわ」
「美術品?」
姉はあたりの骨董品を眺めまわし、ハッと鼻で笑った後に言います。
「いいものは表に飾っている方よ。わざわざ倉庫で埃をかぶってるものを見にくる奴なんかいないでしょう」
「日が当たらないからこそ、芸術には鑑賞者が必要なんです。本来の物の価値とは、置いてある場所には左右されません」
「はあ? 何言ってるか不明〜」
姉は口元をへの字に曲げて、バカにしたような表情をつくります。
厄介な相手に見つかった、と思いました。
姉とは昔から反りが合わず、幼少期から思い返しても、仲良く遊んだ記憶はありません。ジョアンナ・グラスタークという女性は、高貴な家に生まれて不自由なく育てられた、まさに教科書通りの侯爵令嬢であり、自分の思い通りにならないものは気に入らず、相手を曲げて、決して自らを顧みない性格の持ち主でした。
そんな彼女にとって、自分よりも座学も魔術も優秀な妹はきわめて邪魔に映ったようで、ことあるごとに突っかかり、ボロを出さないか試してくるのです。
正直、今最も会いたくない相手でした。
「……屋敷から出るなと言われて退屈なんです。ふと思いついて、この部屋に入って美術品を眺めていました。なにかおかしいでしょうか」
「誰にも告げずに、1人で倉庫っていうのが怪しいのよね。何かやましいことでもしてたんじゃないの」
「なんです? やましいことって」
「そりゃあ……」
姉は一度言葉を切り、私より少し高い身長で倉庫を見回しました。そして彼女の中で何か辻褄があったらしく、ニタニタと笑います。
「ここには、変わった武器や道具もたくさん置いてるわね」
「はあ、そうですね」
「マルドゥークに渡すつもりだったんでしょう。今、アイツは錠付きの鎖でぐるぐる巻きにされて身動きが取れない。その鍵を外せるような道具をここで探していたのね。なんて小賢しいの」
「――そんなこと、思いつきもしませんでした」
姉の推測は突飛で、実現性に欠けていましたが、マルドゥークを救おうと画策しているという部分だけは合っていて妙に始末が悪いと思いました。
きっとロニーお兄様とノノ王女様はすでに邸内に紛れ込んでいます。
お兄様たちをマルドゥークの所まで誘導するのが役割なのに、姉に怪しまれていては身動きが取りづらい……、そう考えていたところへ、姉はもう一歩こちらへ歩いて、私の手首をぐっと掴みました。
赤いマニキュアが塗られた尖った爪が刺さり、声が出かかります。
「行ってもいいわよ、マルドゥークのところ」
「…………え?」
告げられた予想外の言葉に、思わず姉の顔を見ます。
しかし、そこには依然としてサディスティックな笑みが湛えられたままでした。
「ただし、私も一緒について行く。貴女は変わり果てたマルドゥークを眺めて、何も出来ずに、部屋に戻るの。お父様にはフィオレットが倉庫で怪しい動きをしていたと伝えるわ。そしたら部屋から出られなくなるかも。あら、大変。マルドゥークとは最後の挨拶になっちゃうかもね」
――まずい、と思って反射的に手を引きます。
しかし、相当な力を込めているので簡単には振り解けそうにありません。乱暴に振り払って彼女が怪我をすれば、その時はさらに声高に私を非難することでしょう。
引っ張られるままに倉庫を出ると、赤い夕陽が目を刺しました。
「お父様に逆らうから悪いのよ、アンタも、マルドゥークも。大人しく従っていればいいのに、本当にバカ。あははははは」
廊下に姉の笑い声が響きます。
「お待ちください、お姉様。私は本当に、何も企んでなど――」
「言い訳はマルドゥークにでも聞いてもらうのね。もっとも、まともに会話できる状態かは分からないけれど」
私を倉庫から連れ出し、マルドゥークの姿を見せてショックを受けさせたいのでしょう。悪趣味な姉の考えそうなことでした。しかし、父に告げ口されて行動範囲が狭まることは避けなければなりません。抵抗しつつ、なにか良い言い訳がないか探します。
その時、早足になったせいで、うっかりスカートの端を踏んでしまいます。
こけそうになり、体勢を傾けると、それに気づいた姉は逆方向へ腕を引っ張って、さらにバランスを崩させようとしました。彼女の爪が食い込み、痛みに声をあげそうになります。そこで――、
「大丈夫ですか、フィオレット様」
私は、先ほどとは別の理由で声をあげそうになりました。
体勢を崩した私を受け止めてくれた人物と、目があったからです。姉は「邪魔するなよ」という顔を浮かべていましたが、さすがに私の手を離します。
支えられ、体勢を整え、スカートの端を直すその間、自分の頭がフル回転しているのが分かりました。
想定よりもずっと早い。
でも姉に見咎められた以上、もしかすると最上のタイミングかもしれない。
これはピンチではなく、チャンスかも――、と。
「ありがとう、助かったわ」
「いいえ、滅相もありません」
「貴方……、名前はなんだったかしら」
「ロバートと申します」
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