第1話 依頼主
懐かしい夢を見た。
俺は大学院生で、研究室と下宿をひたすら往復するような生活を送っていた。薄暗い研究室には実験器具と資料が雑多に並べられている。
しかし、今日はどうにも筆が進まない。目の前のことよりもっと別に考えるべきことがある気がするのに、それが何なのかどうしても思い出せない。
ふと顔を上げて窓の外を見ると、やけに天気がいい。
なんとなく思い立って、俺は中庭へ出た。
埃っぽい廊下から一歩出ると、気持ちのいい風が吹いていた。
芝生の敷かれた中庭には、午後の日差しが降り注いでいる。
人影が見えないのは休日だからだろうか。
大学が小高い場所にあるため、眼下には街並みが広がり、ぽつんと浮かんだ雲が影を落としているのが見えた。どことなくナラザリオ邸からの景色に似ているな――、と思いつつ、俺はその辺りに腰を下ろして、寝そべった。
徹夜続きの体を、草の香りが包み込む。
目を瞑るとどこまでも深く潜っていけそうな気がした。
どれくらいそうしていただろう。
ふと顔を横に向けると、一本の小さな枝が目に入る。
妙に見覚えがあると思ったら、プテリュクスの枝だった。
何故こんなところに落ちているんだろうと不思議に思うが、それ以上は気にならない。
俺は枝を指でつまみ、くるくると回す。
念じるとその周りに小さな水の球が生じ、放物線を描き、芝へ飲み込まれていった。同時に、無数の化学式が浮かんではじけたような気がする。
今俺を取り囲む全てのものには、少なからず魔素が含まれている。生き物も自然も魔素を持ち、受け取り、渡して世界を構成している。それは遥か昔から存在する世界の理であり、これからも続いていく命の連鎖だ。
そのサイクルからたった1人隔絶されていた俺を、あるべき場所へ引き戻してくれたのがこの枝だった――。
まさしく、魔法の杖。
あるいは、俺と世界を繋ぐトンネルだった、と言ってもいいかもしれない。
今こうして安心していられるのは、あるべき世界の輪に戻れたという思いがあるからだ。
俺は人が言うような特別な男ではない。
みんなと同じだ。
輪の外にいた分、
見え方が少し違うだけの――……。
「ローレン様」
「――――――」
「ローレン様、起きてください。ローレン様」
「――――ん……」
名前を呼ぶ声で俺は目を覚ます。
瞬間、強い疲労感と芯を刺すような寒さが舞い戻った。
夢の中では暖かい芝生の上にいたせいで、それが尚更ひどく感じられる。
顔を上げると、まず覆い被さるような巨大な岩々が目に入った。
隣を歩く馬。白いボロ布をかぶった人々。
俺自身も馬上にいて、雪がまばらな、足場の悪い岩肌を下りているらしかった。
「……どのくらい寝ていたんだ?」と呟くと、隣から返答があった。
「数十分ほどですわ。しかし無理もございません。ハイドラからここまで大変な逃走劇でしたもの」
宴では麗しいドレスに身を包んでいたノノ王女は、いまや見る影もないほど泥だらけだ。それでもなお気品を損なわないところが、王女たる所以だろうか。
続けて、ノノの前で馬を操るヨハンも「確かに無理もないよ」とフォローをくれた。
「丸一日以上歩き通しだし、その前に敵とドンパチやり合ったわけだしね。まあ、ここにいる全員同じくらい大変だったわけだけど」
違った。嫌味だった。
俺は「悪かった」と謝りつつ、睡眠でいくらかスッキリした頭で今の状況を思い起こす。
ハイドラ王宮でヴォルーク王子より開戦が宣言された後、完全に袋のネズミだった俺たちは、足元に地下道を発見することで九死に一生を得た。
現在地はレイジア山脈の中腹。
ハイドラから続く人目につかない隘路を通り、一昼夜かけて山頂を越え、すでにマギア国領側へ到達している。しかしまだまだ危険地帯のただ中。
王都ボルナルグは遥か彼方だ。
後ろから追いかけてきていたハイドラ軍の姿はまだ見えない。
俺の起こした雪崩で足止めを喰らっているのだろう。かといって、あれしきで侵攻を諦めるはずもなく、今頃は迂回路を探しているか雪かきをしているか――、何にせよさらなる闘志を膨れ上がらせているに違いない。もしくは、俺たちが通ってきた道を急いで追いかけてきている可能性だってある。
ヨハンの言ではないが、これだけ緊迫した状態でグースカ寝てしまっていたのはかなりまずい。数十分でも許されていたのは3人の温情だろうが……。
「……?」
そこで、『では何故呼び起こされたのだろうか』という疑問が湧く。
ひょっとして――、と思ったところでノノが静かに頷いた。
「まもなく予定の場所だそうです」
「予定の場所?」
俺は辺りを見回した。マギア国側にいるとはいっても、まだ山の中腹。こんなところで馬を降りろと言われても困るが、と思い、マーチェスに尋ねる。
「何故こんな場所で?」
「雇い主の注文だ」
黙々と馬を歩かせていたマーチェスはぶっきらぼうに答えた。
「どういう注文だ」
「指定の場所までお前ら2人を連れてこいという注文だよ。理由も知らねえし、その後どうなるのかも知らねえ」
「なら、いい加減教えろ。雇い主というのは誰なんだ」
「あーあー、寝起きからピーチクうるせえな。ここまで来たならあとは自分の目で確かめろよ」
マーチェスがそう乱暴に言うと、皆が一瞬押し黙った。
驚きを持って問い直す。
「そこで、雇い主が待ってるのか……?!」
「…………」
マーチェスは応える代わりに、前方を指さした。
そうされるまで何故か気づかなかったが、視線の先に朽ちかけの小屋のようなものがあった。大きな岩と大きな岩に押しつぶされそうに建っているそのあばら屋は、一見古そうなのに妙に造りがしっかりしていて、扉には重厚な鍵がついていた。
「降りろ」
言われるがままに馬から降りる。すると、過酷な道程を人間2人も乗せてクタクタなはずの二頭の馬は、充電器に帰るロボット掃除機のように、静かに小屋の脇へ並んで収まった。
優秀な馬を用意するのも躾けるのも金がかかる――。
それを用意できるだけの人物が小屋の中にいるのだ、と思った。同時にその人物は『殺し屋・マーチェスファミリー』とのつながりも持っているのだ。
「誰だと思う?」と、ヨハンが小声で聞いてきた。
「さあ、まったく見当もつかない」
「本当に?」
「ああ」
「僕は、実はちょっと心当たりあるんだよね」
「……本当か? 誰だ?」
「兄様も知ってる人物だよ。でも、そうであって欲しくないとも思ってる」
「? それはどういう――」
ガチャリ、
という鍵の開く音で。俺たちのこそこそ話は中断された。
開かれた扉から覗いた小屋の中はほとんど真っ暗で、隙間から溢れる光さえもない。
暗がりの中で、2つの人影が立っている。
俺はヨハンに背中を押されて、中へ一歩踏み出した。
「お、お邪魔します……??」
我ながら状況にそぐわない挨拶だと思ったが、待っていた人影は深々とお辞儀をして、言う。
「お待ちしておりましたわ、ヨハン様。そして、ロニーお兄様」
その声に、4年前の記憶が蘇る。
確かにそれは、俺も知っている人物だった。
「…………フィ、フィオレット……!?」
「はい、お久しぶりです。お兄様」
フィオレット・グラスターク。
ナラザリオ家の入り口ですれ違った、人形のような女の子。
グラスターク領の令嬢で、ヨハンの許嫁。
徐々に目が慣れて、彼女の顔が視認できるようになる。
確かに……、面影はある。12歳だったヨハンが16歳になったのだから、3歳年上だったフィオレットは当然、19歳になっているはずという計算にも間違いはないだろう。
しかし、そのことを受け入れるのには結構な時間を要した。
4年と言う時間の長さに、今更のように打ちのめされる。
元より容姿端麗だった才媛の美少女は、美しい大人の女性へと成長していたのだ。
黒のドレス、編み込まれた金色の髪、陶磁器のような白い肌。全体から漂う高貴でたおやかなオーラ。立つ場所があばら屋の暗がりだとしても、あるいは一層に、絵画のような印象を抱かせ――
「いでっ」
脇腹をつつかれて、俺は体をくねらせる。
ヨハンが目を細めてこちらを見ていた。
「何をジロジロしてんの。見惚れてる場合じゃないでしょ」
「――はあ? べ、別に俺は」
「あら、見惚れておられたのですか? それは光栄でございますわ」
フィオレットがそう笑うと、背後に少女漫画的なエフェクトが浮かび、みすぼらしいあばら屋に爽やかな風が吹く。
「あいだっ!」
今度は逆の脇腹をつねられて、俺は大きくのけぞった。
振り返るとノノ王女が無表情でこちらを見ている。基本的にいつも微笑みを浮かべているノノが表情を消すとやけに怖い。
断じて見惚れていたわけではないが、ヨハンの言う通りそんなことをしている場合ではなかった。聞きたいことはたくさんある。しかし、何から尋ねるべきだろうか。
フィオレット嬢がここにいるということは、彼女がマーチェスの言う依頼主であるということだ。彼女なら高品質の長距離馬を用意することは容易いだろうし、ヨハンが「心当たりがある」と言った理由にも納得がいった。
反面、納得がいかない部分も多くある。
この期に及んで何かの罠とは考えたくないが……。
そこで、フィオレットの背後に立っていたもうひとつの人影がゆらりと歩み出てきた。
その姿が暗がりから出てきた瞬間――、俺の背筋をぞわりとしたものが走る。
「…………!!」
正確には、『古傷が痛んだ』という表現が正しいかもしれない。
不気味な仮面と、やたらに暑そうなコート。
いやが上にも4年前に起きた悪夢のような記憶が呼び起こされる。その出立ちは、祠がある丘で俺を襲ってきた2人の殺し屋の姿にそっくりだったのだ。
ただ、格好は似ているが体格が違う。マーチェスファミリーの一員なのだろうか。そいつはフィオレットと俺を通り越し、一番扉際に立っていた相手に声をかけた。
「ズイブンオソカッタネ、マーチェス。マチクタビレテタヨ」
意外なことに中身は女性らしく、ひどくカタコトな喋り方をしていた。
マーチェスはバツが悪そうに後頭部を掻いた。
「ああ悪かった、シィア。ハイドラの状況が思ったよりややこしくてな……。それで、こっちの方の首尾はどうだ?」
「ヒトガドンドンフエルケド、ソノブンウゴキヤスイヨ。モウナンニンカイレカワッテルネ」
「そうか」
マーチェスは短く頷いてから、大袈裟な身振りでフィオレットに礼をした。
いつの間にか泥だらけの上着を脱いでいる。
「ご依頼通りお二人をお連れいたしました、フィオレット様。残念ながらハイドラ軍の侵攻は始まってしまいましたが」
「……そのようですね。とにかくご苦労様でした。もう少し働いてもらうことになりますがよろしいですか?」
「その分の対価はいただいていますから、何なりと」
「ありがとうございます」
フィオレットは小さく頷いたあと、恭しくスカートの端をつまんで挨拶をする。
「お兄様とお会いするのは4年ぶりでしょうか。このような形の再会となったことは残念ではありますが、まずはご無事でなによりでした。――それと、そちらのお方はもしかして?」
視線を向けられたノノも、「グラスターク侯の?」と驚いた表情をしていた。
なるほど、たしかに侯爵令嬢と王女なら何かの機会に顔を合わせていてもおかしくないのかと思いつつ、俺は紹介する。
「こちらはマギア第四王女のノノ・M・バーウィッチ様です」
「フィオレット・グラスタークでございます。ご挨拶するのは初めてとなりますが、このような場所ですので簡単な挨拶となることをお許しください」
俺が知る限りで「The・お嬢様」の二大巨頭が相対している。白百合とコスモスの花が並び立つようなその光景は、殺伐とした状況を一瞬忘れさせた。
「許すだなんて滅相もありません。……つまり、我々は貴女に命を救われたということなのでしょうか?」
フィオレットは謙遜するように首を振った。
「マーチェスさんを雇ってハイドラに派遣したのは私ですが、現場がどういった状況かは分かりませんでしたので、こうして救出が間に合い、王女様までお救いすることになったのはひとえに幸運です。きっとヨハン様とお兄様の働きがあってこそと想像いたします」
「ええ、それは勿論です。しかし地下通路を教えてもらわなければ、あるいはここへ至るまでの馬が用意されていなければ、同じことだったのも間違いありません。要するに今回のことは……」
そこでノノは一旦言葉を切って、俺とヨハンの顔を見た。
彼女が何を言おうとしたかは分かる。
それをはっきりと言葉にしたのは、ヨハンだった。
「……フィオレットは今回の戦争のことを知っていたんだね? 今回の合同演習自体がハイドラの罠で、騎士団が一網打尽にされるという計画も全て」
そこには明らかに責めるようなニュアンスが込められていた。
しかし、命からがら逃げてきた身としては当然だと思う。マーチェスを雇い、ハイドラ王宮への派遣が間に合ったということは、事前にハイドラの計画を知っていなければ不可能だからだ。
「申し訳ありません。仰る通り、存じ上げておりました。今回の一大事件を事前にヨハン様に知らせることが出来ていればと、私も思います。しかしながら、現在の状況が私にできる最善だったのです」
「最善? 戦争はもう始まってしまったんだよ? たくさんの血が流れたし、これからもっと多く流れる。……僕たちがここまで逃げてこれたのも、沢山の人たちを見殺しにしてだ。ハイドラ離宮は燃え落ちて、その下には数えきれない騎士団員が埋まってる。その人たちにも同じことが言えるの……?」
フィオレットはヨハンからの詰問にぐっと唇を結び、喉から搾り出すように言った。
「……我が父、トゥオーノ・グラスタークに軟禁されていたのです」
「――――!」
全員が息を呑んだ音がした。
フィオレットは小さく肩を震わせながら、続ける。
「しばらく前から父の怪しい動きには気づいていました。それが、国家の存亡を揺らがすような事態だと分かった時、いの一番に王都のヨハン様に伝えなければと思ったのです。しかし、父もまた私のことを監視していました。ある日から私は屋敷の外に出ることが出来なくなり、外部との連絡手段の一切を断たれました」
ヨハンが驚きに目を開いて、尋ねる。
「トゥオーノ侯爵がハイドラと内通していた……。な、なら、フィオレットはどうして今ここにいるの? 戦争が始まったから軟禁を解かれたなんてはずもないだろう?」
「フィオレット・グラスタークは今もまだ屋敷に軟禁されていることになっています」
「――ええ??」
ヨハンは首を傾げて、何を言っているかわからないという風に俺を見た。
たしかにフィオレットの説明は支離滅裂であるように聞こえる。しかし、マーチェスファミリーが噛んでいるのならば、意味が通る。
「今屋敷にいるのは、影武者なんですね?」
「お兄様のおっしゃる通りです。トゥオーノは戦争に向けた準備に追われ、娘が偽物であることに気づいていません。しかし勘が鋭い人なので、もうしばらくしたらバレてしまうでしょう」
彼女は姿勢を正し、強い口調で言った。
「戦争は始まってしまいましたが、ヨハン様とロニーお兄様が生きておられることは、まさしくこの国の命運を分けるでしょう。そう信じているからこそ、お二人への助力を、このフィオレットは一切惜しみません」
フィオレットはまっすぐ俺たちを見つめた。
その表情と言葉には、信じていいと思える気迫があった。
ヨハンは無言で頷き、あとの流れを俺に託した。背後のノノはもう少し説明を求めている様子ではあったが、いつまでもこの小屋でおしゃべりしている訳にもいかない。
俺は背後を振り返り、山頂を一瞥してから、フィオレットに向き直った。
「とにかく、これからどうすればいい。多少の足止めはしたが、もう半日もすればハイドラ軍が山を越えてくるかもしれない。一刻も早く王都に状況を伝えないと大変なことになる」
「はい。ではついて来ていただけますか」
フィオレットが振り返ると、シィアと呼ばれた仮面の女性が足元にあったらしい鉄の蓋を開けて、中へ降りて行った。真っ暗な穴の奥からはもはや嗅ぎ慣れた匂いがしてくる。俺はハイドラ王宮から続いた息の詰まりそうな逃走劇を思い起こし、思わず顔をしかめてしまった。
「ま、また潜るのか」
穴の中から笑うような声が響いてくる。
「ドノクニデモ、ヤマシイコトガアルヤツハ、アナホリタガルモノヨ」
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