第三章 幕間


「いいや? そんな知らせは来ていないが?」


ダミアン邸食堂で、若く美しい主人はそう首を傾げた。

隣に立った丸メガネのメイド、マドレーヌも真似るように首を傾ける。


「何故急にそんなことを聞くんですの?」


オランジェットはその問いに対して、無表情のまま、かすかに視線を下げた。

尋ね返されると正直困る。それは漠然としていて根拠のない不安だった。


虫の知らせとでも言おうか、彼女のにひょっとして何か起こってはいないか、どうにも気になってしまったのだ。


オランジェットは内心のモヤモヤを表には出さず、ただ「失礼いたしました。大きな理由はありません」と応えた。

食堂にしばし沈黙が流れる。

明確に言わずとも、オランジェットの不安は他の2人にも伝わったらしい。


「そうだな。きっと今頃は帰り支度を終えて気持ちよく寝ているか、宴で盛り上がっているか。あるいはローレンのことだから、ハイドラの研究資料にでも没頭しているかもしれないな。なんにせよ――」


「左様でございますわね。元よりトラブルにも強いお方ですから、多少のことでは問題にもならないでしょうし」


「――マドレーヌ。その言い方は、散々トラブルに見舞われてきたという意味になる。あまりフォローになっていないんじゃないか」


「だって事実ではございませんの」


「それはそうだが、オランジェットはローレンの身を案じているのだから、あまり不安になるようなことはだなぁ」


「ローレン様だから大丈夫でしょうと言っているのですわ。天気は良好、海の様子も穏やかと聞いております。

万が一、戦争でも始まらない限り心配は不要でしょう」


マドレーヌの言葉を受けて、オランジェットは「戦争」と呟き瞳を大きくした。

ダミアンは頭を抱える。


「ああもう。大丈夫だ、オランジェット。サバーカ王の目がお黒いうちは彼の国と戦争になることはない。私も過去に会ったことがあるが、とても賢明なお方だよ」


「…………」


「ほら、もう遅いから私は寝る。オランジェットはもうしばらくこちらにいるんだろう? ならばお前も寝なさい。心配して何かが変わるわけではなし、無事を祈って待つことしか出来ないんだから」


ダミアンはそう言って、食後の雑談をお開きにした。

家主が部屋を出ていくと、テーブルクロスと食器類が片付けられ、灯りが順に消されていく。オランジェットはそれを手伝いながら、時折窓に目を向けてしまう。


火と砂の国、ハイドラ。


オランジェットは、国境をいくつか越えてきた経験がある。

国境付近ではよく各国の噂が混ざり合うが、ハイドラの印象は、正直あまりよくない。

国王が人格者だとしても、周りもそうだとは限らない。たとえば何年も前に、ハイドラの王子から贈られた象が大暴れしたという事件もあった。許婚相手に象をプレゼントすること、躾が甘いこと、その後の謝罪もろくにないこと。そういった部分全て含めて、粗野で大雑把な国民性という印象がある。


だから――、という訳ではない。

だけれど、オランジェットの内心のざわつきはなくならなかった。

不安を一人抱えたまま主人を待つことに耐えかねて、ダミアン邸を訪ねてもなお。


「オランジェット、消しますわよ」


食堂の奥で、マドレーヌが最後の灯りを消そうとしている。

オランジェットは窓際を離れ、厨房へ入った。





マギア王国第二騎士団、騎士団長ゲレオールは激昂していた。


マギア国境で起きた諍いのために遥々派遣されてきたかと思えば、それはごく小規模なもので、既に平定されていると聞いたからである。

国境沿いの警備には神経を使う。特にこの、マギア王国とハイドラ王国間の軍事演習によって多くの騎士団員が離れている今は、他国から見れば大きな隙となる。


そういった緊張感を持って、最大速度で現地を目指したのだから、ゲレオールの怒りはしごく真っ当と言えた。

しかしながら、諍いが起きたと報告してきたはずの現地民には大した怪我も争った様子もなく、「申し訳ない、情報の行き違いだ」とヘラヘラ笑う始末。


騎士団員の1人が、ゲレオールを宥めながら言った。


「団長、争いがなかったものは仕方ありません。本日はここで宿を取り、明日王都へ帰還することと致しませんか」


「…………」


ゲレオールは、眉間に深い皺を刻んだまま、王都ボルナルグがある方向を睨んだ。

ここまで到着するのに丸3日。ほとんど休みなしで走ってきたので、馬も兵も疲弊しきっている。しかし――、ゲレオールは何かきな臭い匂いを感じ、鼻をひくつかせた。

そして言う。


「いいや、このまま王都へ帰還する。ただちに用意を整えろ」


さすが騎士団中、最も規律に厳しいと言われる第二騎士団員である。不平を漏らし声を上げるようなことはなかったが、疲れの色は隠しようもなかった。


手綱を引き、馬を反転させるゲレオール。

右手のはるか先に、塵でぼやけた山脈の稜線が見えた。


「…………」


その向こう側にいるはずの、マギア騎士団を思う。

サバーカ王も信頼に足る人物だ。お互いの兵力を晒し合う今回の演習は、平和協定の強固さをはかる最終確認とも言えるだろう。

しかし、それにしても――、今回の縁談には不穏な噂話が付き纏っている。華々しい結婚話の陰から、企みの香りが拭い去れない。


ここで一泊していっても、騎士団の船の帰還には十分間に合うだろう。

それでも、最悪の事態を常に想定するのが騎士団長の役割。今この状況での兵力の分散はできる限り避けるべきと、彼の直感が告げていたのだ。


「……しくじるなよ、ベルナール」


ゲレオール・バーミリオンは、馬上で小さくそう呟いた。





「カーラ先輩! 窓拭きが終わりました!」


ナラザリオ伯爵邸の長い廊下で、背後から名前を呼ばれてカーラは振り返った。


「お疲れ様です。早かったですね」


「次は何をしましょう?」


ぱたぱたと健気に駆け寄ってくるのは最近働き始めたばかりの新人メイドだ。明るく、物覚えがよく、皆からも可愛がられている。


勤め始めてもう4年半経つカーラは、自分にもこんな新人時代があったなあと懐かしんだ。同時にふと、新人メイドの姿越しに廊下の先が目に入る。角を曲がった先はカーテンが引かれて薄暗い。


今はもう3階の、あの角を曲がる者はいない。


「…………」


ようやく薄れてきた苦い記憶が、脳裏によみがえった。


4年前――。

使用人にも多数の負傷者を出したあの夜。


今も後頭部を触ると、あの時の傷の場所が分かる。包帯を巻かれ、鋭い痛みと恐怖におびえ、震えながら夜を明かしたことを覚えている。

一使用人には、何が起こっているかさえ分からなかった。翌朝轟音が響き、屋敷を去っていく人影を眺めていた時も、カーラは何も分からなかった。


使用人たちからは当然、説明を求める声が上がる。

しかし返ってきたのは「このことは一切口にするな」という一方的な命令だけだった。


ドーソンはきっと、「屋敷が修繕され、誰もあの夜について触れなくなれば、すぐに風化するするだろう」と考えていたのだと思う。しかし体の傷が癒えても、負った心の傷は消える事はなかった。いつまで経っても胸の深い部分に残り、鈍い痛みを発し続けている。


今も、そうだ。

3階の端の部屋が、今もなお開かずの間になっているのがその証拠だろう――。


「……カーラ先輩? 大丈夫ですか?」


新人メイドが横から覗き込んできて、カーラはふと我に返った。


「――あ、すみません。少し考え事を」


「顔色がお悪いですよ? 少し休んではいかがですか? 今は旦那様もお出かけでいらっしゃらないことですし」


「大丈夫。大丈夫です、本当に」


カーラは小さく首を振ったあと、上の階に視線を向けた。


現在、ドーソン・F・ナラザリオはもう2週間近く屋敷を空けている。隣領地の侯爵令嬢フィオレットとヨハンが婚約関係を結んでいるため、グラスターク領に足を運ぶことはしばしばだが、今回は殊更長引いているようだ。新人メイドは首を傾げた。


「もうしばらく滞在が長引く、という知らせが届いたきりみたいです。何をされているんでしょうね?」


「まあ、きっと何か重要なお話をされてるんでしょう」


「あっ。ひょっとして、ヨハン様の結婚についてとかですかね? 両家にとって最も重要なことですもんね! きっとそうですね?」


新人メイドの目がきらっと輝かせたので、カーラは苦笑した。


「私に聞いても分かりませんってば。それにヨハン様は王都の魔術学校に通っておられるんですから、まだ……」


「あれっ、先輩知らないんですか? ヨハン様は今、騎士団見習いとしてハイドラへの遠征へ同行してらっしゃるんですよ。つまり、船旅の途中でグラスターク領の近くを通るんです! 船上から送るメッセージ、海岸でそれを受け取る婚約者! 愛を確かめ合う2人! すごくロマンチックじゃないですか?!」


「……勿論知ってますけど、その愛のメッセージは旦那様の滞在が長引いていることとどう関係するんです?」


「!! ど、どう関係するんでしょう……? ご家族一同でそれを見守っている??」


「皆さんそんなにお暇ですかねえ」


呆れながらつっこむが、新人メイドは頬に手を当てまた別の妄想をしはじめる。


あの夜の事件で色々なことが変わってしまったが、中でもヨハン・F・ナラザリオの変わりようは一番顕著だった。彼は元々わんぱくな少年で、神童と呼ばれるに相応しい才能を持っていながら、出来の悪い兄をよく慕っていた。この屋敷で唯一の味方だったと言っても過言ではない。父と母がどれだけ蔑ろにしても、家族として変わらず接し続けていた。


しかし、その信頼を切り裂くような兄の凶行。

あの出来事がヨハンの心に深い影を落としたことは間違いない。純真に輝いていた瞳からは光が失われ、笑顔も消え、部屋にいることが増えたせいでカーラと会話を交わす機会もめっきり減ってしまった。


以前を知らない新人メイドは、ただただ感心したように言う。


「それにしても、ヨハン様はさすがですね。王都の事情は分かりませんけれど、騎士団の一員として他国の遠征に参加するというのは、並々ならぬことでしょう。私ももう少し早くお勤めしていればお話しする機会もあったかもしれないのに。もったいないことです」


「……そうですね」


並々ならぬこと、であるのは間違いない。

だが、それに続く言葉は「才能」なのか、「努力」なのか。


それまで勉強嫌いだったヨハンは、人が変わったように勉学と魔術鍛錬に勤しむようになった。遠目から見る限りでも、その様子には鬼気迫るものがあった。

多くの者は、母エリアの教育熱が一層強まったことが原因だと思っている。要因の一つだったことは間違いないだろうが、果たしてそれだけだったのだろうか。


そうではない、とカーラは思う。

ヨハンはきっと兄の背中を追い続けていたのだ。


「ご長男様がかくも優秀であれば、このお家は安泰ですね」


新人メイドは無邪気にそう笑うが、カーラは微笑み返すことができなかった。


ロニー・F・ナラザリオ――。

彼がいたことも、やったことも、全てがなかったことになろうとしている。

カーラさえ、あと何年か経てば思い出すこともなくなるかもしれない。


カーラはずっとそう願っていた。


あの時自分が言った言葉を思い出すたびに、激しい後悔の念に駆られる。痛みとパニックで我を忘れていたとはいえ、恐怖で周りもよく見えなくなってたとはいえ、よく考えればわかったはずなのだ。


『ロニー様があんなことをなさるはずがない』ということは。


ドジばかりの新人メイドにも分け隔てなく接してくれた彼が、自身が虐げられていたからこそ誰よりも優しかった彼が、屋敷の使用人を――カーラを――、いたずらに傷つけるはずがない。可愛い弟を置いてどこかに去るなんてあり得ない。


何か事情があったに違いなかった。

どんな悩みを抱えていたのか、いかなる確執があったのかは分からないが、カーラは自分が抱いているロニー・F・ナラザリオという人物像を信じていた。

いや、今なら少しわかる。カーラは、ロニーのことが好きだった。尊敬や憧れや親しみを混ぜこぜにした上で、ロニーが好きだったのだ。

そんな相手に、ひどい態度をとってしまったことが悔しくてしょうがなかった。


謝りたい。

取り返しがつかないとしても、謝りたい。

カーラがロニーのことを今も慕っているのだと、知って欲しい。



「何を暢気にお喋りしているんです!」


不意に、廊下の向こうから大きな声がしてカーラは飛び上がった。

はたきをもって仁王立ちしているのは、古くからナラザリオに努めている大ベテランのメイドで――、カーラが最も苦手な相手だった。


「こんなところを旦那様や奥様に見られたらどうするつもりです! 花瓶の水替えは! 客室のメイキングは! 床の掃き掃除だってまだ終わってないじゃないの!」


「あっ、あ、ええっと」


「後輩の指導と雑談をはき違えてはいけませんよ、カーラ! すぐに仕事に戻りなさい!」


「――へっ、あっ、はいぃ! すぐにやりますですっ!」




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