第43話 戦いの火蓋は切られた


視界が血と瓦礫で覆い尽くされて、もはや訳がわからなかった。

吹き荒ぶ豪風、その奥で響く怒声。自分が着ている甲冑に何かの破片がぶつかり、際限なく甲高い音を出している。


「ぐ、おらあっ……!!」


痛々しい叫び声と共に、暴風の向こうから巨大な槍が飛んでくる。

私は左腕で槍の腹を叩き、直撃を避けた。手の甲に痺れるような衝撃が残る。地面に転がる音からも、重さが途轍もないことがわかる。そして、それを平然と投げているあの男が、さらに途轍もないのだ。


黒狼軍団長が1人バルドーアという男は、魔術の腕はさほどでもないが、人並み外れたその膂力と体力で今の地位まで上り詰めた。多少の魔法であれば、武器を振り回す勢いで掻き消してしまうという、無茶苦茶さ。


しかし、相手しづらいという意味では理にかなっている。


対人戦というのは、魔法ありきで成り立っているものだ。武術と魔術は双方に補助し合うものであり、バランスが良いほど良い兵士という扱いを受ける。しかしそれは、マギアの話だ。力で圧倒できれば関係ないというあたりが、なんともハイドラらしい。


ガラガラ……、と天井の瓦礫がさらに降り積もってくる。

何人がその下敷きになったか、もはや分からない。


「ベルナールさんさ……」


ふと、語りかけるような口調でバルドーアが言った。

私は相手が放っていた殺気がおさまったことを感じ、手を前に伸ばしたまま風魔法を止める。薄暗いながらも、久しぶりに会場の様子を見渡すことができた。


同時に、自分がどんなざまかも理解した。

自慢の銀色の甲冑はもはや真っ赤に染まり、どこが痛いのかもよく分からない。


天井からは夜の空が覗き、土煙が風に流されて飛んでいった。


「……なんだ」


「ほんと、してやられたよ。地下道がバレたこともそうだけど、その後がさ。アンタは一体何人のマギア兵を逃したんだい」


「さあ……、数えていなかったものでな」


「じゃあ、教えてあげようか。逃げた騎士団員は41人だ。ロズを含めた軍団員達が、別の地下道から追いかけているけど、蜘蛛の巣より複雑なトンネルだからどうだろうね。運良く逃げ延びる連中もいるかもしれない。マギアの精鋭を一網打尽にという計画が、とんだ笑い話だよ」


そう自嘲気味に笑うバルドーアを眺めて、私は言う。


「元々、一網打尽にするつもりなどなかったのではないか」


「……なんだって?」


バルドーアの顔に張り付けられていた笑顔が消える。


「いや、お前に言ったのではない。そもそもの計画自体――、つまり、ヴォルークという男の話だ。ここまでお膳立てをしておいて、一見完全に包囲されたかのように見えても、最後の最後の逃げ道は塞いでいない。そもそもノノ王女を刺そうとした時からそうだ。別にもったいつけてナイフを振り上げずとも、王女を刺すことは出来たはず。まるで、止めたければと止めろ。逃げたければ逃げろとでも言っているようだ」


「…………」


会場はほぼ全てが瓦礫に埋まり、いつ建物全体が倒れてもおかしくないような状況で、今立っているのは壇上の2人だけ。そしてお互いとも、見る影もないほどボロボロだった。

バルドーアから、かすれた笑い声が漏れる。


「本当に鋭いね」


「あの王子の悪趣味さ加減については、嫌と言うほど思い知ったからな」


あの男は、一見馬鹿王子の皮をかぶっているが、鋭く理知的な面を隠し持っている。だからこそ、相手の神経を的確に逆なですることが出来る。しかし、その知性も一枚の皮に過ぎない。一番の深層は――、


「ヴォルーク・H・アフィリオーは自分の欲求にとことん素直なだけだよ。普通蓋をしてしまうような嗜虐性を見て見ぬふりしない。そう言う意味では誰よりも純真だ」


バルドーアが、こちらの思考を先読みするように言った。

私はフンと鼻を鳴らした。


「父親を謀殺し、戦争を始めた張本人が純真だと?」


「争いは人間の根源的な欲求さ。王子は獲物が死に瀕した瞬間、懸命にもがく一瞬が好きなんだ。狩りの時にも、ついつい最後の一矢が甘くなってしまうと仰っていた。怪我を負い、ヨタヨタ逃げる後姿が好きだって」


「そういうのは純真とは言わない。ただの性格異常者と呼ぶのだ。それに付き従っている貴様らもな」


「結局、水掛け論のようだね」


「戦争はいつもそうだ」


元より分かり合うつもりなどない。この状況で分かり合ったところで、何かが好転する訳でもない。それでもなお、ハイドラ黒狼軍という集団はまったくもって救いがたい。


ノノ王女の悪い予感の通りだ。この宴会自体、はじめから嫌な雰囲気を孕んでいた。

そもそも、合同演習などの誘いに乗るべきではなかったし、さらに言えば、ヴォルークは婚約の話自体を戦争の引き金に使うつもりだったのだ。

全てたらればだが、どこかでブレーキをかけていたら、この最悪の事態は避けられたのではないかと思う。考えてしまう。


せめてあの男を、戦争の只中に巻き込むことは避けられたのではと……。


「すまない、ローレン……」


思わず、つぶやきが漏れる。

背後には地下へと通じる階段が伸びている。そこからノノ王女とローレンが逃げてから、もうかなり経っただろうか。追手から逃げられるだけの時間は稼げただろうか。そう願いたい。出来るだけ遠くへ、出来るだけ早く。

奴には謝らなければならない。結局、約束は守れそうにない。私にはマギアへ帰る体力は残っていない。


バルドーアが脇に突き刺していた槍を引き抜いた。


「ああ、ローレン・ハートレイか。結局、噂ほど大した男じゃなかったね。あの魔術試合には感心したけど、所詮は急拵えの魔術師に相殺される程度のものだった。ヴォルーク王子やサーベージの脅威にはなりえない」


「…………大した男じゃない?」


応じて、私も剣を抜いた。

柄を握る手に力がこもり、ミシリと音を立てる。バルドーアが少し驚いた表情をした。


「何、怒ってるの?」


「――怒っている? そうか、なるほど。私は怒っているのか」


言われて気付く。確かに、私は怒っていた。

ローレン・ハートレイを侮辱され、甘く見積もられていることに憤慨していた。

何故ここまでの感情が湧くのか、自分でも不思議だった。


「確かに、あの男の性格は戦い向きではない。ハイドラの国風とは合わんだろう。しかし、あれが大した男ではないとは――、節穴を通り越して哀れですらある」


「な、何……?」


バルドーアが眉を顰め、姿勢を低くした。

星空が照らす空洞の大広間で、二つの銀色の刃がぎらりと光っている。次が最後になるだろうと、私は悟っていた。だからこそ、間違いを正しておかなければいけなかった。


「ローレン・ハートレイは優しいのだ。自分を犠牲にして、誰かを生かそうとする。あれだけの知性と魔力を持ちながら、それに溺れることがない」


「……つまり、考えが甘いんだろ?」


「我々兵士の観点から見ればな。元々住む畑が違うのだ。そして、奴を無理やり戦争の場に引きずり出したのはそちらだ。言っておくが、貴様らはとっくのとうに虎の尾を踏んでいるのだ」


「――――」


「そう遠くないぞ、ローレン・ハートレイの全力が貴様らに牙をむくのは。奴は優しい。そして、マギアを愛している。だからこそ、敵味方が入り混じった状況下で始末しておくべきだった。しかし、もう遅い。残念だったな」


もし、ローレンを生きてマギアへ帰せば、それこそがベルナール・バーミリオン最大の功績となるだろう。たとえ後世に語り継がれずとも、自分がそう信じてさえいればいい。


これでもう、思い残すことはない。


「せいぜい好きなように言えばいいさ。どうせもう僕らの力の及ぶところじゃないんだ……!」


「その通りだな」


風を切る音と共に、特大の槍が放たれる。

私は飛び込み、前転をするようにそれを躱した。その衝撃で、体中の傷が痛み、血があふれ出す。しかしそれはバルドーアも同じだった。投げ終えた右肩からは痛々しく骨がはみ出している。

満身創痍、どころではない。何故、立って会話が出来ているのか分からない。


お互いを立たせているものがあるとすれば、数多の兵の上にあるという責任感だけだろう。全く馬鹿馬鹿しい。体はもう疲れて、とっくに眠たいと言うのに、心がそれを許してくれない。


風魔法を発動する。

剣の周りに烈風が逆巻き、その勢いのままバルドーアの左腹へ突き刺さった。


「――――!」


バルドーアは大きく後ろにのけぞるが、倒れ掛かる直前で左足で踏みとどまり、身を捩るように私の側頭部を殴りつけた。


「ッ……」


鉄球でも落ちてきたような衝撃に、視界が明滅する。


殴られた勢いのまま、私は右側に体勢を崩す。

しかし、そこになかったはずの硬い壁が私を阻んだ。ガチン、と反対側の側頭部を壁に打ち付け、また視界が弾ける。


そこへ、今一度バルドーアの拳が迎えに来た。さっきよりも勢いをつけた重い拳だ。三度目にはもう、音が消えうせた。


光魔法か……。

バルドーアは魔術の腕はさほどでもないと言ったが、それは裏を返せば、人並み程度には使えるという意味だ。力任せな戦法をとり、魔法から意識を外してしまう事により、いざというタイミングには、本来の何倍もの効力をもたらす――。

と、感心している場合ではない。


私はまだ、右手に持った剣を離してはいなかった。バルドーアの脇腹に刺さったままのそれを、強引にねじり、振り回す。


「が、ああッ……!」


という低い呻き声と共に、血飛沫があふれ出た。

剣を引き抜き、ありったけの魔力を込めて風魔法を生み出す。私とバルドーアを巻き込んだ竜巻が、さらにお互いの出血を加速させた。


バルドーアが左腕で掴んだ大槍を振り回す。

それが、私の右胸を貫く。


私は剣を握り直し、横に薙ぎ払う。

刃がバルドーアの首元に埋まった。


バルドーアが右足で、私の顎を蹴り上げる。

私の振りぬいた拳が、バルドーアの頭蓋を捉える。


もはや何も見えない。

ただ残っているのはわずかな感覚のみ。

それも、どんどんと薄らいでいく。




ミシ――――、ズズ――……ズ……



遠くの方で、音がした。

何かが壊れ、崩れる音が……。






すまない。

ありがとう。





暗闇の中――、

ザホ、ザホという一定のリズムと、微かな呼吸音だけが聞こえる。

俺たちは馬に乗り、星の光だけを頼りに、レイジア山脈の中腹を登っていた。


レイジア山脈は東西へ長く連なり、サメの歯のように尖ったり引っ込んだりしており、標高の低い所は人や馬が通れるように街道が通っている。


しかし当然ながら、最主要のルートは選択できない。

マーチェスが言った通り、ハイドラの大隊が山を越えて侵攻するなら、その道を抑えていないはずがないからだ。俺たちが選んだのは、ここでもまた裏ルート。足場が悪く目印さえない、ほぼ道なき道を進むことになった。


時折、眼下に点々と火が灯るのが見えた。

道案内の為の配備か、黒狼軍側の休息地か。数万単位の兵が通るのだから、規模もそれなりだ。主要ルートと裏ルートの距離は1キロほど。夜のうちに進めるだけ進まないと、見つかってしまうだろう。


マーチェスが用意したのは雪山に慣れたいい馬だった。

人2人を乗せ、さらに荷物を担ぎ、雪山の急勾配に耐えうるだけの馬力がある。いわく、これもまた依頼主が用意したものらしい。いい馬と言うのは時に莫大な価格で取引されることを、俺は元貴族子息としての知識で知っていた。


真夜中に差し掛かり、雪が降りしきってくる。

ハイドラの平地が比較的温暖だった反動で、芯からこごえるような寒さが疲れた体に堪えた。馬に乗るにも、捕まっているだけでも体力がいる。もはや誰も口を開かなかった。


寒さで思考がぼんやりとしてくる。

時間が経てば経つほど、自分が何をしているのかよく分からなくなってくる。


自分は今、何故進んでいるんだろう。

マギアへ帰るためだ。


マギアへ帰ってどうする。

戦争が始まったと、伝えなければならない。



何故ここにいるんだろう。

敵から逃げているからだ。



どこまで逃げればいいのだろう。

マギアの――、マーチェスの依頼人の元へだ。詳しい場所は分からない。



すでに、一体何人が死んだのだろう。

分からない。きっと数えきれないほどだ。




何故こんなことになったのだろう。

分からない。








もう、よく分からない。

まるで、俺の頭の中にも雪が積もっていくかのようだ。




















どれほど経ったのだろうか。

ひょっとすると、一時的に意識が途切れていたかもしれない。

気づけば右手側――、山脈の稜線がわずかに白み始めていた。


やがて、朝日が徐々に顔を出し始める。

マーチェスがふと、羽織っている布を裏返すように言った。

今まで気づかなかったが、用意された服の裏側は白い布地になっていた。だがこれも所詮は気休め。見つかる時には見つかると言われた。


俺たちはさらに山を登った。

時折、岩陰に腰を落とし馬を休ませながらも、着実に道を進んだ。


不意に、雪が晴れた。

日光が顔を照らすと、氷が柔らかく溶けるような感覚が全身を包んだ。

まるで数年ぶりに太陽を浴びたような気分になった。


「おい」


マーチェスに呼びかけられて、レイジア山脈の頂上が視線の先に迫っていることに気づいた。マギアとハイドラは頂上を境にしている。

果てしなく遠く、もはや再び見ることはないと思っていた祖国がすぐそこという事実は、たまらなく心を震わせた。


「……ノノ様、マギアですよ」


俺は後方のノノに声をかけた。

ノノがヨハンの肩越しに顔を覗かせる。その表情は夜通しの雪行で憔悴しきり、いつもの麗しさは見る影もなかったが、細めた目の端に小さくきらめくものが見えた気がした。


しかし、そんなやり取りを見たマーチェスが呆れたように眉を顰める。


「違え、下だ」


マーチェスが視線で示したのは右側後方。

ハイドラとマギアをつなぐ主要登山路の方だった。

振り返り、言っている意味を理解した瞬間、ぞくりとした悪寒が心臓を撫でた。


ハイドラ王宮からレイジア山脈の中腹にかけて、黒狼軍が山越えを図っているのが見えたのだ。いくつかの隊に分けられた黒く長いそれは、まるで蟻の行列の様だ。行列はただ一方向を目指している。

その光景は俺にということをまざまざと知らしめ――、思わず口から呟きが零れた。


「もう、あんな所まで来てるのか……」


「さすがにあの数での登山は難儀だろうが、俺らが逃げたことを踏まえて足は速めているはずだ。少なくとも、マギア側に兵の準備をさせる十分な暇を与える気はねえだろうな」


「…………」


「ぼーっとしてんな。こっちから見えているってことは、あっちから見えているってことでも――……、ん? おい、何やってる!」


マーチェスが咎めるような声を上げる。

俺が急に馬から降りたからだ。ずっと宙に浮いていた足が地面に触れ、ぼおっと痺れるような感覚がした。


「足止めをしないと……、いや、せめて出来る限りマギアへの到着を遅らせなければ、それだけ多くの被害者が出る。電話もネットもないんだ。マギア南部に住む人々は訳も分からず、あの大軍を目にした瞬間殺されるかもしれない……」


俺は斜面の際に立った。

少し岩道から離れると、雪が深く積もり埋まってしまいそうになる。

背後で3人が危ないと呼ぶ声が聞こえるが、構っている暇はなかった。


「……ここは黒狼軍の通る街道よりも高い場所にあって、間の斜面にはふんだんに雪が溜まっている。昨晩降ったばかりの新雪と、それまでの雪が地層のように重なっているはずだから、斜面上部の層が大きく動けばあとは街道に沿って麓を目指し、滑るはずだ……。なあ、ヨハン」


俺は振り返り、弟の名前を呼ぶ。


「――え、はい、何?」


「マギア騎士団員が生き延びていたとして、黒狼軍の通る主要な街道を逃げ道として選択すると思うか。お前ならどうする」


「? いや……、僕ならわざわざ敵の拠点が点在しているような道は選ばないと思う。例え時間がかかっても、目立たずマギアを目指せる道が賢明じゃないかな」


俺は首肯して、さらに問うた。


「じゃあ、あの黒狼軍の行列に捕虜として捕らわれている可能性は?」


「それは、正直分からない。あの状況から生き延びた兵士を今さら捕虜にするメリットがあるかも含めてね」


「じゃあ聞き方を変える。仮に捕虜にされたとしても、マギアへの侵攻を急いでいるのだとしたら、先頭の隊に紛れている可能性は少ないと見ていいか」


「それは、確かに」


「そうか」


「……ごめん、質問の意図が分からないんだけど」


俺は自分の右手を見つめた後、一度ぎゅっと目を瞑った。

今から為さんとすることは、ある意味でとてつもない悪行と言えるだろう。

4年前のあの日――、ナラザリオ領を後にするときにドーソンに向けて言った言葉。お前と同じところまで堕ちるつもりはないという台詞を、自分自身に突きつけられているような気分だ。ようやく分かった。人生に起こる大きな出来事は、綺麗事で片付けられることばかりじゃない。

この世界も、あちらの世界でも。


俺は柔らかく静かに続く、雪の下り坂を見下ろして言った。


「今から雪崩を起こして、黒狼軍の道を塞ぐ。一時的とはいえ追い越しているこの有利を生かさない手はない。ただ万が一にも巻き込まれないように、馬は避けておいてくれ」


「お待ちください、ローレン様。それはつまり――」


ノノが驚きとともに、何か言いたげに口を動かした。

しかしその先を言われると、せっかく固めた覚悟が揺らぎそうな気がして、俺は首を振った。


「相手は手段を選ばなかった。ならば、こちらも手段を選ぶ必要はありません。そして恵まれたことに、俺は手段を選ぶ権利を有しています。ならば、より後悔しないようにしたい。マギアの友人たちを守るために、あるいはこの戦争を終わらせるために、俺は全力を尽くしたいんです」


ノノがじっと俺の目を見た。

服は泥に汚れ、きれいな肌のあちこちに傷をつくり、疲弊しきっていても、瞳の奥の色だけはそのままだった。いや、むしろ昨晩の不吉にくぐもったそれよりもよほど眩しく見える。それこそがまさしく、俺の守りたいものだった。


「……ローレン様自身が、そうすべきだと思われるのですね」


「そうです」


俺が頷くと、ノノも目を閉じて頷いた。

そして両手を握り合わせるようにして言う。


「私はローレン様を信頼しております」


そこで今度は、しばらく静観していたマーチェスが問う。


「それで、どうするつもりだ。小規模な雪崩じゃ足止めにはならねえだろうが」


「点発生型の雪崩だとそうなる。面発生型か表層型の雪崩を起こすために、広範囲かつ深い衝撃を与えないといけない。そうすると水魔法や氷魔法では心許ない……」


マーチェスは怪訝そうに眉をひそめ、ヨハンとノノに視線を向ける。

しかし2人も似たような表情で首を傾げていた。


俺はさらに一歩前に踏み込んだ。

脚が膝下まで埋まり、バランスを崩しかける。これ以上進んだら一緒に流されかねないというギリギリだ。


「火魔法を使う」


俺は、右手に魔力を込める。

出来る限り大きく、遠く、魔素範囲を展開すると、早朝の雪景色の中で魔素がぼうっと淡く光りだす。


正直、一発で上手くいくかは自信がなかった。

厳密に言えば、既存の火魔法の枠組みを少し超えているのだ。原理こそ単純だが、研究不足感は否めない。

しかしこの状況で、これ以上適した魔法はないように思う。


俺の魔術理論では、魔素が空気中にある素粒子や原子をコピーできると仮定している。それが術者のイメージによって水分子や、ガス性の気体に変換される訳だが、その延長線上でもっと別の反応も起こせるだろうと考えたのだ。

大別すれば燃焼と呼べるが、化学反応と伝播速度が急速な場合、一般的に呼び方が変わる。


つまり――――、





レイジア山脈の頂上付近で、轟音と、赤い火が弾けたのが見えた。

それは黒狼軍団員たちが思わず足を止めるほどの規模だった。音が山と山の間でこだまし、やがておさまる。


しかし、真の恐怖はそのあとにやってきた。

煙が起こり、地面が揺れ始め、何かがひび割れるような音が響く。すぐには何が起きたか分からない。何か上の雪模様が変わったような気がして、


あっ、と思った次の瞬間には、白いうねりに飲み込まれていた。


悲鳴や叫び声さえもかき消すように、無慈悲な質量によって、雪が全てを押し流していく。崩れた雪が、さらに下の雪を巻き込み、加速度的に規模を拡大しながらあっという間に麓までたどり着く。黒狼軍側は雪山の恐ろしさや、突発的な雪崩を警戒していないわけではなかった。


しかしその雪崩は、街道だけを綺麗に飲み込んで道を塞ぐような悪魔的な計算を感じさせるものだった。



結局、黒狼軍は第一陣と第二陣に多大な被害を被った。

雪崩に埋まった兵士の救出と、街道の再整備にはかなりの時間がかかるだろう。

その一部始終を、雪崩が届くギリギリのところで見ていたヴォルーク・H・アフィリオーは、周りが驚くほど大きな笑い声をあげた後に、全ての感情を失ったように無表情になった。




その漆黒の瞳が見る先では――、

ひとつの小さな人影が山の向こうへと消えて行った。












     ――――――第三章 完――――――


        次章、『最終章 戦争』

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