第14話 馬車の乗り心地
自動車や新幹線などを知ってしまっている身からすれば、馬車というのはひどく乗り心地の悪い乗り物である。
スプリングやクッションで、ある程度は緩和されているとはいえ、そもそもこの世界の路面状況は劣悪で、一応なり石畳で舗装されている王都を一歩出てしまえば、良くて砂利道、大概はぬかるんだ悪路といった具合である。
しかし、現在進行形で遠ざかる王都を眺めながら馬車に乗っている今の俺に、愚痴や文句を漏らそうという気は全くない。否、そんなことをしたらあらゆる方面から非難囂囂であろう。
何故ならば、俺が乗っている当馬車は王都でも最高品質の馬車であり、更に向かいの席にはこの国の王女が乗っているのだから――。
「ローレン様は、こうした長距離の旅は初めてでいらっしゃいますか?」
柔らかな声音でそう尋ねるのはマギア王国第二王女、ノノ。
俺は窓の外で流れる景色を眺めていた視線を車内へ戻し、少し記憶をさかのぼって答える。
「まともな旅は初めてですね。そもそも国外――、どころか領外に出たのでさえ王都に来た4年前が最初で最後でしたから」
ちなみにその時は、着の身着のまま無一文で、道すがら出会った行商人に拾ってもらいました――、とまではさすがに言わないが。
「そうなのですか。ちなみに王都に来る前はどちらにいらっしゃったのですか?」
「お、っと。え~~…………」
「ダミアンの出身は確かツブリニッジだったと思いますが、ローレン様もやはりそちらから?」
「――そう、ですね。はい」
俺が返した適当な相槌にも、ノノはふむふむと頷いた。
そしてふと心配するような視線で俺を見る。
「では、今回のような数週間にも及ぶ長旅はご負担になるかもしれません。軽々しくお呼び立てしてしまって、本当はご迷惑だったのではありませんか」
「――いえいえ、絶好の機会をいただいてノノ王女には感謝の念しかありません。挙句の果てにはこうして王女様の馬車に相乗りさせていただくことになろうとは……」
「私が是非にとお願いしたのです。話し相手がいなくてはあまりにも退屈ですから」
ノノ王女はそう言って、にこりと微笑む。
その様子に嘘や気遣いは見て取れなかったが、しかし……、と俺は思った。
「…………あの、ノノ王女」
「はい」
「以前から聞きたいと思っていたんですが……、どうして俺のような者のことを特別気にかけていただけるのでしょう。話し相手にしても、もっと気心の知れたお仕えの方々がいるのではと思うのですが」
俺は率直な疑問をぶつけてみることにした。
シャローズやダミアンからの紹介で、ノノと話す機会を得たのはもはや随分前のことだが、それにしても長旅のお供に任命されるというのは相当なことである。現に馬車に乗り込むときに周りからの視線には訝しむようなそれが多分に含まれていた。
「ローレン様が嫌とおっしゃるのであれば、別の馬車はご用意できると思います」
質問の意図が間違って伝わってしまったらしく、俺は急いで訂正した。
「――いえ、違うんです。そりゃあ甲冑の騎士たちに挟まれて一週間も座りっぱなしよりは、最高級の馬車で美しい女性と旅できる方がいいに決まってます。当たり前です。ただ、余りにも恐れ多いと言いますか、そこまでしていただける心当たりがないので……」
するとノノは一瞬目を丸くして、口元に手を当てて笑った。
「ふふ、ローレン様は本当に正直でいらっしゃいますね。でも私がローレン様を素敵だと思うのはそういうところなのです」
「そ、そういうところ?」
「子供の頃から王女という身分で生きていると、良くも悪くも人の飾られた言葉に慣れてしまいます。透明なガラス一枚隔てているような、そんな感覚でしょうか。それは例え親子でも、兄弟相手でも、取り払われることはありません」
「……シャローズ様相手でもですか?」
「あ、うふふ。シャローズがいましたね。あの子も例外です。あの窓を開け放ったような性格を私も真似できれば、多少は気が楽かもしれませんけれど」
俺は、ノノがシャローズのように振舞い、騎士たちを相手に演習場を飛び回る様を想像してみる。
「シャローズ様が二人になったら……、ケリードさんの胃に穴が開いてはじけ飛びそうですね」
「そうでしょう? 誰に似たのか、あの子は奔放を絵にかいたような性格ですから。しかし、ローレン様とはまた違った意味で隔たりを感じずお話が出来るんです」
そこでノノは一度言葉を切り、俺に問いかける。
「――初めてお会いした時のことを覚えてらっしゃいますでしょうか? 王宮の庭園で空を見上げておられるところをお見掛けして、『あれがシャローズとダミアンの言っていた方なのだ』と気づいて声をおかけしたのですけれど」
「…………中庭でしたか? あるパーティで、シャローズ様にご紹介いただいたのが初めてだったと記憶していたんですが」
俺が記憶の食い違いに首をひねると、ノノはそう言うと思ったという表情で否定した。
「いいえ、実はその前に会っているんです。私はこう声を掛けました。「雲一つない、青くて綺麗な空ですね」と。正直に申し上げると、少し驚かそうという思いもございました。しかしローレン様は『レイリーサンランハタイキチュウニマソガフクマレテイテモカワラズオコルンダヨナ』と、まったく分からない言葉を呟いて、振り向きもしなかったんです。そしてしばらく二人で空を見上げていたあと、悩まし気に向こうに歩いて行ってしまわれました」
自分の記憶にない恐ろしいエピソードに、俺はぞっとして体を震わせた。
レイリー散乱というのは、空が青く見える理由とされている現象のことだ。
王宮の広大な庭園は、関係者であれば特に立ち入りが制限されていないのでよく気分転換に散歩をするのだが、何か考え事をしているタイミングで、ふと耳に入った単語に引っ張られてそんな独り言を漏らしてしまったのだろうか、俺は。
「や、やばい奴じゃないですか……。まず不敬罪で打ち首ものですよ……」
「私どうしても気になって、関連するような本を探したんです。でもどこにも、一つたりとも、ローレン様のおっしゃった言葉は書かれていませんでした。でも分からなければ分からないほど気になってしまって。少し無理を言って、シャローズに頼んでお会いする機会を設けてもらったんです。その時は無視されることはなかったので安心致しました」
「気づかずそんな失礼なことをしてしまっていたとは……。狭い場所ですみません。あの、これ土下座と言いまして、最大限の謝罪を全身で示す姿勢なのですが……」
俺は座席に正座し、頭をこすりつけた。
考え事の最中にふと意識がトリップしてしまうというのは、前世より様々な人から指摘を受けてきた俺の悪癖なのだが、その相手がこの国の王女で、しかも無視をするような真似をしたとあっては笑えない。状況が状況であれば、冗談抜きでその場で切腹モノだろう。しかし――。
「いえ、私は怒ってなんかいませんよ。むしろ余計に面白い方だと興味がわいたんです。佇まいと言いましょうか、もっと言えば雰囲気、あり様が、まるでこの世界とは別の場所から来たみたいな……。うふふ、例えですのでお気を悪くしないで下さいね」
「――するどっ」という言葉が、思わず漏れ出そうになって俺は焦る。
実際、ノノにはシャローズとはまた違った種類の鋭さがあった。先日のトランプの勝負強さ然り、一見おっとりしているようで実によく人を見ているというか。
世間一般では、ノノ王女は非常にお淑やかで、いわゆる深窓のご令嬢というような印象を抱かれているのだが、実際に会って話してみると決してそうではないことが分かる。
「とにかくその時、私は思ったんです。きっとこの方には私たちが見ているものと別の景色が見えているのだと。ただ高く青いだけの空を、もっと遠くまで見通しているのだと」
「…………」
「これが、私がローレン様を素敵だと思った理由です。ご納得いただけましたでしょうか」
ノノはそう締めくくり、俺の反応を待った。
俺は何と答えていいものか分からず、気恥ずかしさに頭を掻いた。
「……ノノ王女は、変わり者でいらっしゃいますね」
「私もですか? 私は今、ローレン様が変わり者だというお話をしていたつもりなのですけれど」
「その変わり者を気に入るのが、変わり者たる所以でしょう。そんな奴を見ても、無礼だと憤慨するか、頭がおかしいと関わり合いを避けるのが普通だと思います」
「あらあら、そうするとローレン様の周りは変わり者だらけという事になってしまいますね。ご安心ください、ローレン様が良識のある方ということは重々存じていますので」
ノノはそう言いながら、窓の外へと目を向けた。俺もつられて外の景色を見る。
王都を発ってから既に2時間は経過しているだろうか。
現在マギア王国騎士団一行の馬車は見晴らしの良い平原地帯を横切っている。船への乗り換え地点、港町パーロへはもう倍の時間がかかる見込みのようだ。
遠く南の方向に、連なった山々の尾根が見える。あの向こう側がハイドラ王国なんだよなと、俺は改めて旅路の長さを実感した。
「そう言えば、ヴォルーク王子はどのようなお方なんですか?」
「……ヴォルーク様は、何と言いましょう。ローレン様とは対照的と言いますか……。非常に武芸に秀でたお方で、狩猟や遠乗りなどがご趣味だそうで……」
「それは確かに対照的ですね。俺は根っからのインドア気質ですから」
「私もなのです。部屋で静かに本を読むのが好きなので、趣味が合うかどうかが少し心配ですね……、なんて。申し訳ございません。少しだけ憂鬱になってしまっているのかしら」
そう無理に笑みを作って見せるノノの表情はどこか痛々しく、先ほどまでと違って明らかに陰っている。俺は選ぶ話題を間違ったことを自覚した。
「今までの暮らしが大きく変わるわけですから当然です」
「今までの暮らし……。そうですね。みんなと別れるのは……、やっぱりとっても寂しいです……」
いわゆるマリッジブルーと言うのだろうか。
顔を外の景色に向けたまま俯くノノに、何かもっと気の利いた言葉をかけたいと思うが何も浮かばない。
決まったことだから諦めろだなんて惨いことは言えないし、かと言って、現代式の自由恋愛観を振りかざすわけにもいかない。
ヨハンとフィオレットの婚約さえ、その重責はとてつもなかった。言ってしまえば、俺が殺されかけた事件もその影響を受けてのことだったのだから、それが国家間の盟約を背負ったものとなれば、その重さは誰に計れるものでもない。
俺は初めて、歴史の教科書の行間に無数の人生ドラマが隠されていたことを痛感した。そして何よりも思い知らされるのは、そうした歴史上の偉人達も、一人一人の人間であるという、どうしようもなくあたりまえで残酷な事実だった。
車内にややも重い空気が流れたところで、馬車が緩やかに減速して止まった。
どうやら一時、休憩を挟むようだ。俺は話題転換のいいきっかけになったと思い、馬車の扉を開ける。
そして先に地面に降りたって、ノノへと手を差し伸べた。
「新しい環境に変わるという事は、新しい出会いもきっとあるという事でしょう。そうした時にこそ発見があるものです。休憩が終わったら、是非ハイドラ王国の国風について伺ってみたいですね」
ノノは一瞬驚いたような表情を浮かべたのち、差し伸べられた手を取った。
「勿論です。ハイドラはマギア王国とは環境も人々の暮らしも全く違いますから、ローレン様にはさぞ興味深いことと思いますよ」
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