第9話 兄と弟


「――ダミアン様」


ふと使用人の一人に名を呼ばれたので、私は振り返る。

少し前までローレンやリーキースと話していたところに、ハンナとルフリーネが呼びに来て、ちょうど一息ついたタイミングだった。


「どうした」


「ダミアン様にお客様がお見えです」


そう聞いて、私は思わず眉根を寄せた。

来客の予定は聞いていないし、とっくに陽が落ちた夕食時だ。突然の訪問にしてもやや不躾ではないかと思った。


「誰だ? 用件は?」


「王都魔術学校から来たと……、以前一度手合わせをしていただいたと仰せでした」


「魔術、学校……?」


少し考えた後に心当たりの顔がふっと脳裏をよぎり、私は反射的にローレンに目をやった。もちろんハンナ、ルフリーネとなにやら屈んで話している彼には、声が届いているはずもない。


「――分かった。対応しよう」


私は結局、ローレンに声をかけることをせずに食堂を出た。

訪問者の正体は十中八九、思い当たった通りだろう。しかし、だとしても今夜この場所でローレン・ハートレイの誕生パーティが開かれていることまで知っているとは考えにくい。用があるとすれば、この私にであるはずだ。


パタリと扉を閉めると、途端に食堂内の騒がしさが遠いものになった。

人気のない夜の廊下に、吐息の音がやけに大きく響く。窓を覗くと薄暗闇に包まれた前門――、塀の奥に立つ人影がわずかに見えた。

しかしここからでは何も分からない。


私は階段を降り、屋敷の玄関の扉を開けて庭へ出る。

その音に反応した人影が一歩前へ出て、顔が月明かりのもとに晒された。


「――お久しぶりです、ダミアン様」


はたして立っていたのは予想通りの人物――――。

しかし当然ではあるが、私の記憶にある姿ではなく、大きく成長した姿だった。


「……王都に来ていたのか、ヨハン」


「名前を覚えていていただけたようで、安心しました」


「覚えているとも。いずれ王都で再会できるだろうと言ったのは、他ならぬ私自身だからな」


ヨハン・F・ナラザリオ。

ナラザリオ領を治めるナラザリオ伯爵家の次男、――世間的には長男となっているのだったか――、かつて近くに寄る用事があった際に一度だけ指南役を請け負ったことがある子だ。

こう言うと関係性としては薄いようだが、その指南の際に私はロニー・F・ナラザリオという前代未聞の天才と邂逅したわけで、彼が弟たるヨハンを置いてナラザリオを去った経緯についても詳しく知っている身としては、到底他人とは言えない相手である。


「しかし4年前はもう少し気兼ねのない感じだったが、ずいぶんと畏まった様子じゃないか」


私がそう言うと、ヨハンは恥ずかしそうに後ろ頭を掻いた。


「幼かったのです。ダミアン様がどれほど名だたる魔術師なのかも理解しておりませんでした。今となっては恥ずかしい限りです」


「いやいや、若さとはエネルギーだ。躊躇いなく全力で挑んできたあの日の君にこそ、私は可能性を垣間見たのだからな」


数年越しの称賛を送られたヨハンは困ったように笑ってから、仕切り直すように言った。


「――さておき、このようなお時間に約束もなく訪ねてきてしまい申し訳ありません。魔術学校から外出許可がなかなか下りず、本来なら王都に来てすぐに挨拶に伺いたかったのですが……」


「構わないさ。しかし確かに不思議なタイミングではあるな。このような時間にこそ、外出許可は下りそうにないが」


「実は――……」


そう言ってヨハンは胸元に手を入れて、銀色に輝く小さな記章を取り出した。

月明かりでは心もとないが、それは見慣れたものによく似ていた。


「この度、学校の推薦を受けて騎士団見習いとして訓練を受ける事になりまして、その準備のために長めの外出許可を貰ったんです。あれやこれやの手続きをしている間に、こんな時間になってしまいました」


「騎士団に、見習い……?」


私は内心、少なからず驚いた。

王都魔術学校に入学することに不思議はないが、勢い余って騎士団へ推薦されるとは、ヨハンの優秀さは私の想定の数段上だったらしい。


「どこで訓練を受ける予定なんだ」


「王宮の騎士団演習に混ざる予定と聞いています」


よりにもよってか――、と私は思った。

まあ王都魔術学校からの見習いを都外に派遣する方が面倒なのかもしれない。ともあれ、ヨハンがローレンと遭遇する可能性が爆発的に高まってしまったのは間違いない。可能性どころか、今や二人の距離は目と鼻の先だ。


「…………」


ここでローレンを呼べば、晴れて兄弟の対面が叶う。

くしくも今日はローレンの誕生日。再会の舞台としては感動的と言えるかもしれない。しかし――、と私は思いとどまった。


お互いに心構えが出来ていない状態での再会は、望まぬ結果を招いてしまう可能性がある。それほどにナラザリオ家で起きた襲撃事件は凄惨で、ヨハンを残して王都を目指したローレンの決断は苦渋の末のものだった。

反対に、ヨハンに兄の事を尋ねるのも憚られる。彼らは確かに仲の良い兄弟だったが、4年という歳月は関係性を失わせるに十分すぎた。


「……ダミアン様?」


ヨハンがしばし沈黙していた私の顔を覗き込む。


「いいや、凄まじい才能だと思ってな。君がどれほど成長したのか、是非拝見したいところだが…………、すまない。今、我が家でささやかな催しを行っていて、あまり長く話す時間がないんだ。王宮に出向くのであればまた機会はあるだろう、ゆっくりと話すのはその時にということでいいだろうか」


「勿論です。お忙しい中、わざわざ時間を取っていただき感謝いたします」


ヨハンがそう頭を下げる。


では……、と私が別れの挨拶を口にしようとしたところで、ヨハンが言う。


「――――最後に一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


頭を上げたヨハンが、先ほどよりも明らかに真剣な表情で私を見ていた。

その視線は怖いくらいに兄によく似ていて、とても嫌な予感がした。


「な、何だろうか」


「ローレン・ハートレイというお方を、ご存じでいらっしゃいますか」


「――ぷえっ」


心臓が大きく跳ねて、私は思わず訳の分からない声を漏らしてしまう。咳払いをして必死に誤魔化すがヨハンにどう映っているかは分からない。


今現在、ナラザリオにどこまでの情報が伝わっているかは定かではないが、聡明なヨハンならば、限られた情報から関連性を見出していてもなんら不思議はなかった。

しかし愚かにも、私はその可能性について心構えをしていなかった。ただでさえ突然だった訪問で、想定していた会話はせいぜい前半部分まで。考える時間が必要なのは、ローレンだけではなかった。


「ローレンは……まあ、そうだな……、私の遠縁にあたる……的な人物だ」


「王都にいらっしゃると聞きましたが、本当でしょうか」


「そ、そうだな。いるっちゃいると、思うな」


我ながら誤魔化すのが絶望的に下手で、死にたくなる。


「お会いすることは可能でしょうか。是非一度、話をしてみたいと思っているのです」


「そうかー。しかし、ど、どうだろうな。なにぶん多忙なようだから、私からは何ともな。今度会った時に聞いてみようそうしよう」


「……ありがとうございます。何から何まで不躾なお願いで申し訳ありませんが、なにとぞよろしくお願いいたします。それでは」


私を見る目に不信感がよぎったように見えた気もしたが、急いでいるとでも勘違いしてくれたのか、それ以上追及することなくヨハンは居住まいを正した。

私は内心の安堵をなんとか表に出さぬよう押しとどめながら、今度こそ背中を見送る準備をしたところで――――……、



「あぁ大変、ローレン先生! 同盟が破棄になっちゃう!」



「――――!」


立ち去りかけていたヨハンがバッと振り返り、声が聞こえてきた窓の方向を睨んだ。

見上げれば、2階の食堂の窓がわずかに開いている。私はあまりのタイミングの悪さに脳内でルフリーネを責めるが、どうしようもない。


「…………ローレン殿が、……今、このお屋敷にいらっしゃるんですか」


ヨハンが声を低くして問う。

先ほどのやり取りでさえおぼつかなかった私の頭はもう真っ白だった。


「ええっと、あの、いや、ヨハン。これには事情があってだな……!」


「事情とは、どのような」


「ジジ、ジジョウハ~エエト~……」


しどろもどろになった私は表情ですべてを白状しているようなもので、使い物にならない。ヨハンは何かを確信した様子で、上へ大きく跳ねた。


「あ、ああ~……」


私はその姿をただ見上げ、間抜けな声を漏らすしかできなかった。





窓際に足をかけた青年が、じっとこちらを見つめている。

パーティ参列者も順に異変に気付き始め、BGMも止み、騒がしかった会場はにわかに静まり返った。


「…………ヨハン、なのか……?」


「…………」


喉から絞り出すように、俺は問う。

しかしヨハンから返答はない。


問いかけたいことはいくらでもあった。

しかしその数はあまりに膨大で、言葉としては喉から先に出てはこない。俺たちの間には時を止めたような沈黙が流れた。


4年前に比べれば、20センチは伸びたのではないかと思われる背丈。肩幅も広がり、筋肉もついたようだ。当然である。小学生の年齢だった弟が、高校生の年齢になって現れたのだから。

しかし、すっかり成長したその姿にも幼いヨハンの面影が多分に残っていて、ナラザリオでの16年間の光景がフラッシュバックする。


一緒に野山を駆け巡ったこと。屋敷中を隠れ場所にしながら、追いかけ合ったこと。ボードゲームでどんどん勝てなくなったこと。街へ降りてベーグルサンドを買って食べたこと。魔術研究のために2人で部屋にこもり、夜まで語り合ったこと。カーラと3人で湖へピクニックへ行ったこと――。


出来の悪い兄を唯一慕ってくれた、ただ一人の弟。

しかし、事情を何一つ明かさぬままナラザリオに置いて来てしまった弟。


今、俺を無言で見据えるヨハンは何を思うのか。

それが今の俺には分からない。こんなにも間近にいるというのに、4年という月日が俺たちの間に埋めがたい溝を作って突き放そうとしている。


過去の日々に沈んでいた俺の意識が、ふと現実に引き戻されたのは、ヨハンが右手のひらを上に向けたことに気が付いたからだった。


「…………?」


意図が分からず、差し出されたその手のひらを俺は見つめる。すると、手のひらの内側がわずかに光を帯び始め――――、


「――――ローレン様ッ!!」


途端、背後から俺の名前を呼ぶ声がしたかと思うと、険しい表情を浮かべたオランジェットがヨハンに向かって猛然とダッシュしてくる姿が見えた。

その表情が、主人に害をなす不審人物を排除しようというそれだと気づいて、俺は慌てて立ちふさがった。


「駄目だ、オランジェット!!」


「……!?」


オランジェットは怪訝そうな表情を浮かべながらも急ブレーキをかける。しかし、彼女の手の先にはすでに風が逆巻きはじめており、臨戦態勢は解いていない。

同時にチャキッ、という金属音が聞こえる。会場の最奥に立っていたリーキースからであった。

王国最強の男が剣に手をかけている――、その事実は会場の空気の緊張感をこの上ないものにする。俺でさえ、下手に動けば次の瞬間には斬られるのではないかという迫力があった。


リーキースは無言で、俺に問う。

敵か、味方かと。


振り返ると、俺ではなく会場の様子を見回しているヨハンの姿がある。

その右手は掲げられたままだが、既に光は失われていた。


ヨハンは眉根を寄せ、目を瞑り、かすかに体を震わせた後に、再度俺と目を合わせた。


「――――」


口元がわずかに動く。そしてすぐさま腰を浮かせて、後ろ向きのまま窓枠を蹴ると――、


王都の闇夜へと姿を消してしまったのだった。


「…………ヨハン」


俺はヨハンが消えて行った方向を見つめ、しばし呆然と立ち尽くしていた。体感時間から言えば途轍もなく長い時間、無言で見合っていたような気がする。しかし、実際にはわずか十数秒ほどの出来事だったろう。


「ローレン様」


駆け寄ってきたオランジェットが、無事を確認するように俺の名を呼ぶ。

それと同時に食堂の扉が勢いよく開き、焦ったダミアンが姿を見せた。


「すまない、ローレン。私のせいでヨ――――……。それで、何がどうなったんだ?」


俺はダミアンの言葉から何となくを察する。


「…………いえ、何もありませんでしたよ。ダミアン様」


ダミアンは一瞬「とてもそうは見えない」という表情を浮かべたが頷いて、目線で「後で話そう」と俺に伝えると、ややも騒然とする会場内の招待客の方へと向かっていった。

かわりにリーキースが歩み寄ってくる。


「……はじめはお前の知り合いが、サプライズでやって来たのかと思ったのだが、どうも違ったようだな。何者だ、あいつは。少なくとも知らぬ顔ではないようだったが?」


リーキースがそう言いながら、顔を出して辺りの様子を確認する。そして既に異変がない事を確かめたのち、窓を閉めてカーテンを引いた。


「私には、魔法を放とうとローレン様を狙ったように見えました。ローレン様の命を狙おうといずれかの組織が差し向けた刺客ではないのですか」


オランジェットは表情を険しくしたまま、俺を睨み上げていた。

彼女の脳裏には3年前の精霊協会騒動のことなどがよぎっているのだろう。しかし、何と説明してよいか分からない俺はとっさの返答に窮する。

そんな俺の代わりに答えたのは、リーキースだった。


「殺し屋ではなかろう。殺し屋だとすれば、顔も隠さずに登場してきて、何もせずに撤退とは間抜けが過ぎる。何よりも今の男には殺気が感じられなかった。では、何をしようとしていたのかと聞かれれば分からんがな」


リーキースなりのフォローに感謝しながらも、俺は首を振る事しかできない。


「申し訳ありませんが、今は詳しく説明することが出来ません」


「……何故、説明が出来ないのです」


「ち、近いなオランジェット……。ええと、それがちょっと複雑で……」


「複雑とは」


食い下がるオランジェットを見て、リーキースは笑う。


「まあ、事情の一つくらい誰しもあるものだ。こういう時に詮索しすぎるのも逆効果だろう。ローレンが無事だった、ともかくはそれで充分ではないか」


「しかし、危険因子を野放しにしておくと先々また数倍になって降りかかってくるということが――、万が一のことがローレン様に――……」



なおも口を尖らせるオランジェットの小言を横に聞きながら、俺はカーテンの隙間からわずかに覗く夜の王都を見やった。


ヨハンが何故突如として現れ、あのような行動に出たのか、俺にはついぞ分からない。怒り、呆れ、失望、軽蔑、嫌悪。そんな思いをヨハンが抱いていても何ら不思議はないし、事実俺はずっと、ヨハンは何も言わず去った兄を呪っているだろうと思っていた。


しかし、最後にかすかに動いた口元。

そこから聞こえた言葉が、俺の頭にこびりついて離れない。

果たしてあの言葉にはいずれの思いがのせられていたのだろうか。


聞き間違いではないと信じたい。

ヨハンは確かにこうつぶやいたのだ。






「兄様」と――――。




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