第4話 初雪
「あらあら」
窓際に立つバニーユが小さく声を漏らしたので、私は本を読んでいた顔を上げてそちらを向きました。彼女は窓を薄く開け、手に何か乗せた素振りで振り向きます。
「寒い寒いと思っておりましたが……、姫様ご覧くださいませ」
バニーユの手のひらの中を覗き込むと、そこには小さな雪の結晶がひとつ。
私は窓の外へと顔を向けます。まだお昼前の冬空は青く晴れていますが、その中には確かにチラチラと白いものが舞っているようでした。
「去年に比べるとずいぶん早い初雪ではないかしら。ハンナは喜びそうだけれど」
「さようでございますねぇ。この老いぼれの記憶が正しければ、去年よりも15日は早いのではないかと……。大してアテにはならないでしょうが」
「大丈夫ですよ、バニーユ。あなたはまだまだ現役です。私が保証します」
「そう言っていただけると幸いです。姫様がお嫁に参られるまではボケないようにと決めているのです」
バニーユが曲がった腰をさすりながらも嬉しそうに微笑んだのを横目に、私は窓際へと歩み寄りました。両側の窓を外向きに押すと同時に、目の覚めるような冷気が頬をたたきます。
眼下には王宮の庭園と、その先に王国民の暮らす街並みが見えました。ひと際澄んだ空気のせいか、ちらつく雪のせいか、昨日までの眺めとは随分雰囲気が違ってしまったように感じられます。私はこの冬独特の空気が決して嫌いではありませんでした。
「姫様、あまり大きく窓を開けるとお部屋が冷えてしまいますよ」
「ええ、そうですね。ごめんなさい」
そう答えながら、私が窓の取っ手に指をかけると――、
ふいに庭園を横切る一つの人影が目にとまりました。
紺に近い黒髪に丈の長いコート、衛兵たちとは違い少し頼りない体つき。小さな女の子に手を引かれるようにして歩いていく横顔。
この距離からでも一目で誰か分かりました。
「ロ――……」
思わず声を上げかけて、私はあわてて口に手を当てます。
いくらなんでもこんな高い場所から声が聞こえるはずがありませんし、何よりもそんなはしたない姿を見せるわけにはいきません。
「姫様、どうかなさいましたか?」
「いえ……」
私はゆっくりと窓を閉めながら、視界の外へと消えていく彼を目で追いました。
何かご用事があるのか、それともどこかへお出かけなのか、確か歩いて行った方向には騎士団の演習場があるはず。そんなことを思いながら、私はさっきまで座っていた椅子に腰かけます。
しかし、どうしてか本の続きを読む気になれませんでした。
「ねえ、バニーユ」
「なんでございましょう」
「シャ、シャローズは今日は何をしてるかしら?」
〇
マギア王国の王宮を俯瞰的に見たとき、王宮の横に円状の建造物が併設されていることに気が付くだろう。
灰色の石材でくみ上げられた円柱状の巨大建造物――、俺にしか伝わらない例え方をすると、それはローマ帝国のコロッセオとよく似ていた。中央には土の敷かれた広いグラウンドがあり、その外側を丸く囲うように客席が設けられているあたりもそっくりだ。
しかしこの建物には定まった名前がない。催しに応じて、闘技場や舞踏会場、祭事場などに変わるのである。なればこそ俺は多目的スタジアムと呼ぶべきではと思うが、ともあれ、今の呼び名は『騎士団演習場』。既に金属と金属のぶつかり合う音が聞こえ始めていた。
手をつなぎながら横を歩くルフリーネに言う。
「今日ルフリーネが演習場に顔を出してる事は、もちろん親御さんたちは知ってるんだよな?」
「うん、王宮のご用事が済むまでここで時間つぶしててもいいって、お爺ちゃんが」
「普通なら大切な孫娘を鉄臭い騎士団演習場なんかで遊ばせたくないと思うがなあ」
「まあまあ、やることやってますからね! 前にも言ったけど、私って実は勉強の成績もいいから。これも魔術の勉強だって言ったらおじいちゃん何も言えないの」
「出来がよくてわんぱくな孫は扱いに困るだろうな、気の毒に。まるでどっかの誰か…………」
「どっかの誰か?」
「――いや、すまん。何でもない」
不意にヨハンの名前がこぼれそうになり、思わず口をつぐむ。4年たった今も、俺はダミアン・ハートレイの遠い親戚ということになっているのだから、下手に弟がいるなどと言うとあとあと齟齬が生じるのである。
しかし、思い出さずにはいられない。言い訳をすることもできずにナラザリオ家を去った俺を、ヨハンはちゃんと忘れてくれているだろうか。
魔術と武術の天才児として、だれもが望むナラザリオの次期領主として、俺の代わりに満たされた人生を送ってくれているだろうか。今の俺に出来るのは、こうして遠くから願うことだけなのだが――。
そんなことを考えながら、薄暗い石のトンネルを潜り抜ける。
するとすぐに視界が開け、広々としたグラウンドに出た。そこでは数十名ほどの甲冑姿の男たちが真剣を交えている。その剣戟の最中、同時に魔法が入り乱れるところが以前の世界との違いだろうか。
もっとも以前の世界で、真剣での斬り合いを拝んだことはないのだが。
「リーキースさぁん! 先生連れてきたよ!」
ルフリーネが演習場の端に立つ黒髪の男に声をかける。
すると、すぐにリーキースがこちらに駆け寄ってきた。決して軽くない甲冑を身にまとっているのに、まるでスキップでもするような軽快さが恐ろしい。
「やあルフリーネ嬢、お使い感謝する!」
「お安い御用!」
「おはようございます、リーキースさん。それで……、見てほしいというのはどちらの方々ですか?」
「ああ、あそこに待機させてる3人だ。騎士団の中で今氷魔法を習練中が23人。その中でももう少し何とかすりゃあ実戦に持ち込めそうっていうレベルの奴らなんだが、どうにも少し前から伸び悩んでるらしい。お前から何かアドバイスでもしてやってくれれば助かる」
リーキースがそう言いながら向かい側に並ぶ3人の騎士を指さす。
名前までは憶えていないが、早い段階で氷魔法のコツを掴んだ騎士たちだ。俺と目が合った3人は機敏な動作で敬礼をする。
「……まあ、ご期待に沿えるようにやってみますが、例のごとくあんまり過度な期待はしないでくださいよ」
「例のごとく構わんさ。お前が見て駄目なようだったら、その時は身の丈に合った戦い方をさせるのでな。騎士団員に対して氷魔法の訓練が実施されてから2年、すでにお前は十分な実績を残している。まだこうやって来てもらっているのは、こちらの我儘なのだからな」
そう言って、頭を掻く俺の肩をリーキースが叩いた。
氷魔法を扱える人材の教育――。
この任務の第一段階はいったん終了していると言っていい。
さすがは精鋭ぞろいの王国騎士団。水魔法の適性を持つ騎士団員は、数か月の訓練を経て続々と氷魔法を会得していった。
と言っても、残念ながら全員とはいかなかった。魔力量が豊富な者、そして比較的若い人材というのが大きな線引きとなったようだ。それは水魔法適正者の中のおよそ30%ほどであった。
しかしその条件さえクリアしていれば、数週間ほどの訓練で氷魔法の兆しを見せる者が現れ始めたのだから興味深い。それまでお伽噺の中のものとされてきた氷魔法は、水魔法の原理から、氷魔法への応用、発展という正しい手順を踏めば、決して特別な魔法ではないと証明されたのである。
今までは誰しもが氷魔法は実現不可能だと決めつけていた。魔法が生み出される原理も、魔素の動きにも気づく者はいなかった。
しかし気付いてみれば、それはごく単純な仕組みだった。
科学とはえてしてそういうものの繰り返しだったと再認識させられる。
ともあれ、氷魔法の習得は俺から騎士団員へというステップから、氷魔法を会得した騎士団員から未習得の騎士団員へというステップに移行していた。
俺としては生徒たちが一度巣立っていくのを見届けたと思っていたのだが、それでも教わる側の数に対して教える側の人数が圧倒的に足りないのも事実。加えてリーキース曰く、俺が教えるのが一番習得が早いのだそうだ。
「ねえ先生、私も横で見ててもいい?」
ルフリーネがそう言って、俺を見上げる。
「別に構わないが、退屈じゃないか? ルフリーネの使える魔法は土魔法だから」
「退屈じゃないよ。氷魔法は珍しいし、別に他の属性の魔法だって何かの参考になるかもしれないし――……」
と、そこまで言って、不意にルフリーネの目がジトリとしたものに変わる。
「……それとも、かつての教え子はもうどうでもいいって事?」
「は?」
「昔の女になんて興味ないんだ。お前は寂しく土いじりでもしてろって、そう言いたいんだ先生は。およよ……」
わざとらしく泣き真似をするルフリーネの頭に、俺はコツンと拳を置いた。
「口元がにやけてるのが見えてるぞ。……心配しなくても、ルフリーネは今でも俺の大事な教え子だよ。ほら、行くなら行くぞ」
「えへ、だから先生好き」
ニヘラと笑い腕に巻き付くルフリーネ。
両側からかけられる「お疲れ様です、ローレンさん!」という野太い声にぎこちなく応じながら、俺たちは演習場を横切っていく。
遮るもののない頭上からまだ昇りらない太陽が差している。剣と魔法がぶつかり合う音、土と鉄のむず痒くなるような匂い――、そんな光景も見慣れてしまったことがまた、否応なく時の流れを感じさせるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます