第30話 消えた少年


「失礼いたします。教皇様」


「――――入れ」


扉の向こうから小さな声が返ってくる。


踏み入れた先は、夕暮れに照らされる真っ赤な部屋。

聖堂の最上階、聖堂のどこよりも神聖なはずの部屋はひどい有様だった。

瓦礫は撤去され、家具も取り替えられているようだが、大理石で囲まれた壁や床や天井には、まるで巨大な猫に引っかかれたような生々しい傷が残っていた。

にわかには信じ難かったが、教皇様の私室で派手な戦闘があったという話は本当らしい。


「…………随分と遅かったの……、ドイル」


「! し、失礼いたしました。少々都外へ出ておりまして。本来ならば、すぐにでも馳せ参じたかったのですが……」


「しかし、初めにあの者を審問会にかけるよう進言したのは、お主であったはずじゃが」


「それは――――、いえ、申し訳ございません……。 ま、まさかこのような事になるとは思ってもみなかったのです。よもや、あのような小僧の為に王族がでばってこようなどとは……」


「思ってもみなかった、のぅ」


キイ、と教皇様が腰かけられた椅子が鳴る。

教皇様の声はいつにも増して、小さく弱い。わずかに見える横顔は、ひどくお疲れのご様子だった。


「よい……。事実、あの者は精霊教会に反する考えを持っており、我々とは相容れない者であった。お主は精霊教の教えに基づき、正しいと思う心からそうしたのであろう……?」


「も、もちろんです! 私は教会のため、教皇様のためを思い、行動したのであって……、決して精霊教会を危機に陥れようなどという考えはございません。然るに――――」


「もうよいと言っておる……。儂は疲れた……、もはや話すことも苦痛である」


教皇様はそう言って小さく背を丸めた。まるで、目と耳を塞ぐかのように。


「かしこまりました。――しかし教皇様、お部屋がこの有様では気持ちも休まらないでしょう。下の者に言って、すぐに替えの部屋を用意させますが」


「…………ここで構わん。いや、ここがよいのだ……。ここからは、景色がよく見えるからの。ドイル……、お主に頼みたいのは、3日後の審問会での後始末である。あの者を異端者として取り上げよとまでは、もはや言わん。ただ、此度の事を全て無かった事にせよ。儂はもう、この話を早く終わらせたいのじゃ…………。よいな?」


「かしこまりました。これ以上教皇様へご心労をおかけする事のないよう、尽力いたします……!」


私は一礼をし、扉に手をかける。

その時ふと――、教皇様が壁にかかった肖像画に首を向けられたのが見えた。

若き日のネロ教皇、教皇様の一人息子であるロネリ様と奥様の肖像画である。幸いにも絵に傷はついていないようだった。


教皇様がこの絵を私室にかかげられたのは、ロネリ様夫婦が事件に巻き込まれてお亡くなりになってからだ。


「のう……」


教皇様が一際小さく呟く。

しかしその呟きは、私に向けられたものではない。


「儂は何か間違っていたのであろうか……。だとすれば、一体いつから間違っていたのだろうか……。儂はお前たちの事を愛し、精霊の祝福があらんと祈っていた。しかしそれは

意味がなかった事なのじゃろうか……。何故……、ローレン……、あの者はかように、精霊に愛されて…………、ごほっ」


「教皇様!! やはり先の揉め事でご無理をされたのでは……!」


教皇様が苦しげに咳をされたので、私は慌てて側へと駆け寄った。

しかし教皇様は震えながら、近寄るなと手を払う。


「…………少し、ごほ、むせただけじゃ。心配ない……。

下がれ。今日はもうこの部屋に人を寄越すな。食事も不要である」


私は無言で頷き、退室した。

そこへ、空気を読まない足音が駆け上がってくる。

私はすみやかに扉を閉め、息を切らす教会員を睨んだ。


「騒がしい。教皇様は本日はもう誰ともお会いにならない。用件ならば私が聞く」


「はっ、し、失礼いたしました。しかし、教皇様のお耳にも入れた方がよろしいかと……!」


「何だと言うのだ。またぞろ王宮の連中でも来たのか。相手なら全て私がする」


「い、いえ。別件でございます。事態が事態であったので、一体いつからのことか誰も正確には把握していないのですが……!」


「だから、何の話を――――」


「ダネル様が、お部屋におられません……! 鍵も閉まっており、窓の外は飛び降りることなど出来ない高さです……! こんな事は今までありませんでした……!!」


「――!?」


私は、全身の血の気が引くのを感じた。


なんだ、一体なんだと言うのだ。

何故こうも予定外の事ばかりが起こる。


私は怪しげな魔術研究をしているカイルの臨時講師を審問会にかけ、危険思想の疑いありという採決を下させ、その報告をただ家で待てばよいはずだった。場合によってはダミアン・ハートレイの元で魔術を習う事自体を見直さねばと思っていた。


それがどうしてこんな事態になる。どうしてこんな大事になってしまう。

審問会は中断され、教皇様の部屋で大騒動が起こり、第一王子までが出張ってくる始末。

挙句、その混乱に乗じてダネル様が失踪だと――――?


「い、いかがされますか、ドイル様。ダネル様の捜索は、話の性質上大規模なものは

致しかねます。そもそも部屋を出た方法と理由が分かりませんが、恐らくは聖堂内のどこかにおられるのではと…………、あ、ドイル様……?」


「――――――」


頭から血が引き、私はよろよろと壁にもたれかかって言った。


「決して、教皇様のお耳には入れてはならん……! 秘密裏に、必ず見つけ出せ……!」





「まぁ、そんな事になってたの!? 前からうっすら聞いてはいたけど、思ったよりも真っ黒ね、精霊教会。真っ黒!」


食堂で、向かいの席のシャローズが驚きの声を上げる。


ようやく精霊教会から解放された俺は、屋敷へと帰り、食事をとりながら昨日と今日の出来事のあらましを話し終えたところだった。

自分で話していても、あまりに信じがたい話の連続。ダミアンやシャローズが驚くのも無理はない。


しばし黙って話を聞いていたダミアンが、口元を拭いてから言った。


「……話の概要は分かった。改めて、精霊教会の行いは到底看過できるものではない。元々、審問会となどというものの存在自体が胡散臭かったのだ。今まで国が見て見ぬふりをしてきた、そのツケとも言えるな」


「んぐっ、そう言われると責任感じちゃう。でも、王宮内にも精霊教会派みたいなのがあって事あるごとに揉めてたのよ。お父様は下手に藪をつつかないように、あえて不干渉を貫いてきたのだと思うわ」


「そう言った政治的事情も分からないではない。だが、今回の事に限って言えば、国が負うべき責任もあるはずだという事だよ」


シャローズは正論を食らい、ムムムと唸る。

別にダミアンはシャローズ個人を責めているわけではないはずだが、国政を担う王族とはそう言われても仕方のない立場でもある。


「それよりも問題はこの先の対処だな。まさかヨルク殿の名前が借りられるとは、正直思っていなかったが」


そこで俺は気になっていた名前が話題に上がったので、やや前のめりになる。


「俺も気になっていました。何故第一王子が、名前も顔も知らない俺の為に書状を?」


するとシャローズは少し複雑そうな顔をして答える。


「ちょっと無理を言ったの。私の名前だけじゃ教会側が大人しく従うかどうか微妙だったけど、ヨルク兄様の名前なら無視できないはずだと思って。

元々お兄様は教会側の権力拡大に懐疑的だったというのもあったし、ダミアンの人柄をよく知っているからこんな冗談を言うはずもないって納得はしてくれた。

でも立場はあくまで中立。それ以上でもそれ以下でもないわ」


「しかしさすがに、第一王子の名前を聞いて難しそうな顔をしていました」


「藪をつついたのは、今回の場合あっちだった訳ね。まあどのみちローレンは、書状なんかなくても教会を出れてたのかもしれないけど」


シャローズは俺を見て、最後だけ少し茶化すように言う。

だが俺としてみれば笑える冗談ではなかった。


「逃げ出すのと、正面から堂々と帰ることが出来るのとは全然違います。一時休戦を命じてくれたからこそ、俺は今こうして命の危険もなく料理をいただけているわけですから」


「なら、よかった」


シャローズはそう邪気のない笑顔を見せる。

横のダミアンが腕組みをしながら頷いた。


「全くその通り。こうしてまた一緒に食事が出来ることの喜びは何にも変え難い。私としても、多少骨を折った甲斐があったと言うものだ。勿論ローレンの苦労には及ばないが」


「そうそう、ローレン。私の所に来た時のダミアンの顔、是非見せてあげたかったわ。ローレンが、ローレンがって泣きそうだったの」


「――えっ」


「む!? いや、そんな事はなかったはずだ。私はあくまで毅然とした態度で事態の収集に……」


「慌てて私の部屋の花瓶まで割っちゃったくせによく言うわ」


「そうだったんですか……」


「ロロ、ローレン、その心配するような顔を止めるんだ。シャローズの話はいつも大げさすぎるからな、まったく」


わたわたと手を振るダミアンに微笑ましそうな目を受けながら、シャローズは衣服を整えて立ち上がる。


「さて、今日の所は話も聞けたし、一旦王宮に帰るわね。こっちはこっちで準備もあるし、ヨルク兄様にも今の話を一度通しておいた方がいいだろうし」


「そうか。では次会うのは三日後ということになるかな?」


「多分ね。出来れば事前にもう一度話しておいた方がいいかもしれない。教会側がさっきのローレンの話を素直に認めるとも思えないから」


シャローズは食堂の窓から、お付きのケリードが馬車を用意して待機しているはずの前門方向に目をやる。

俺は立ち上がって、改めて頭を下げた。


「シャローズ様、まだお礼を言うには早いのかもしれませんが、本当にありがとうございました。感謝してもしきれません」


「またそんなかしこまっちゃって。貸し借りはトントンだって言ったのに、もう……。

あ、そうだわローレン。じゃあ今回の事が無事に終わったら一つお願いを聞いてほしいことがあるんだけど」


「お願いですか? もちろん出来る事なら、何でもしますけど……」


「もう一度手合わせをしましょう。今度は全力で、ね」


俺はその予期せぬお願いに目を丸くするが、それは逆に言えば、それ以上の事は求めていないというシャローズなりの気遣いだと気づいた。


「――ええ、分かりました。審問会で俺の魔術の全貌は曝け出してしまったんですから、もう隠す必要もありません」


「やった」


シャローズは嬉しそうに小さく飛び跳ねると、食堂を後にしたのだった。





「こ、ここでいいんですかい? そもそも、今日はお部屋で勉強をしてるって聞いてましたが……」


「いい。ダミアン先生に急ぎの質問があるんだ。家での勉強なんていつでも出来るし、これも勉強の一環だろ?」


「そうですかい。坊っちゃまが最近熱心に魔術の練習をしておられることは、あっしとしては喜ばしいことですがね。しかしもうお迎えには上がれませんよ。教会で旦那様を待たなきゃなりませんから」


「分かってる。でも約束通り、父様には内緒にしておいてくれ。じゃないとお前がこの前、サボって馬車で寝ていたことをバラすからな、フォーレス」


「へえへえ。まあ坊ちゃんくらいの年齢の男の子は、父親に隠し事をしてなんぼですからね。むしろ隠し事としては健全すぎるくらいでさぁ。せいぜいあんまり遅くなって、旦那様に叱られないようにお気をつけくださいよ。この件で一緒に叱られるのはごめんですからね」


「分かってるよ、うるさいな。早く行ってくれ」


俺がしっしと手を振ると、御者のフォーレスは貴族地区の路地道を器用に馬車で通り抜けて行った。俺は馬車が見えなくなり、通りにも人目がないことを確認してから、横の茂みに身を隠しているダネルに声をかける。


「行ったぞ、ダネル」


「――ぷはあ! バ、バレてなかった!?」


「ああ、フォーレスは昔っから鈍いから大丈夫だろ」


「あ〜、ドキドキした。でも本物の冒険みたいでワクワクしたよ。馬車の荷台に隠れて検問をやり過ごす、そんなシーンが本の中にもあってさ」


「うるせえ、オタク。案外能天気だな本人は。俺はバレたらと思ってヒヤヒヤしてたってのに」


「カイルが無理やり連れ出したくせに。

……それで? ここがカイルの通ってる魔術教室? 本当に僕の落とした本があるの?」


ダネルはそう言いながら、目の前の塀を見上げる。

その向こうにあるのはダミアン先生の家。今日は教室の予定もなく、庭先にも人の気配はない。


「ある。多分」


「多分なの!? そんなあやふやな感じで僕を連れ出したの!? ぼ、僕がどれだけ勇気を出してカイルの――――」


「うるせえ。とにかくマドレーヌあたりを呼んでくるから、もう少しここで隠れてろ。見つかんなよ」


「わ、分かったよ……」


俺が小さく頷いてから、呼び鈴を鳴らそうとした時。


全身を貫くような悪寒を感じて、思わず門の向こうを見る。

すると1人のメイドが、こちらに鋭い視線を送っていることに気付いた。

さっき一瞬見た時は、誰もいなかったと思ったのに。


「――――」


オレンジメイドは強く睨みつけたまま、近くまで歩いてくる。


「……カイル様。いかがされましたでしょうか」


そう尋ねる声色は刺々しく、とても歓迎をしようというそれではない。


「ローレ――……、いや、ダミアン先生に用があって来た。会わせて欲しい」


「………………」


オレンジメイドは、目の底を覗くように俺を無言で見下ろしている。

そして、一段と声を低くして問うてきた。


「――――何のおつもりですか」


「!」


「あなた方がローレン様にされた事を、知らないとは言わせません。

なによりことの発端はカイル様にあったのではありませんか。ローレン様はようやくつい先程お帰りになり、お部屋で休んでおられます。たった3日のうちにひどくお疲れのご様子でした。それをまた教会側の人間が会わせて欲しいだなどと、応じられると思うのですか」


「……ッ! 俺のしてしまった事は分かっているつもりだ! だから、それを謝りたくて……!」


「謝りたいから会わせてほしい? そんな言い分が通るとお思いですか? 残念ながら私には、あなたが教会側のスパイにしか見えないのです。それに、後ろの茂みにも誰かが隠れているでしょう」


「!」


「ほら、やはり何か企んでおられる……。残念ながら、お取り次ぎする事はできません。

お帰りください――――」


メイドはそう冷たく言い放つと、予備動作もなく高く跳び上がった。

そして門を軽々飛び越すと俺の目の前に立ち塞がり、無言でこの場を去るように迫る。しかし、ここまで来て退く訳にはいかなかった。


「……た、頼む! 許してくれとは言わない! ただ、説明をさせて欲しいだけなんだ

……!」


「……せめて、最終審問が終わってからお越し下さい。いかなる理由があろうとも、今のローレン様に、不用意に教会側の人間を近づける訳には――――」


「オランジェット」


不意に、背後から声がかけられる。

会話を遮ったのはメイド長のマドレーヌだった。


「お客様に会うかどうか、それを決めるのはあなたではありませんよ。一メイドとしての越権行為ではありませんの?」


「マドレーヌ様……!」


オランジェットが大きく後退りする。

俺はマドレーヌの登場に思わず安堵するが、マドレーヌが俺に向ける目線もいつものそれではなく、ひどく冷ややかなものだった。

俺は改めて、自分の行いがこんなにも、この屋敷の人々の怒りを買ってしまっていたのだと自覚する。


「ダミアン様にお伺いを立てて参ります。そこでしばらくお待ちいただけますか……?」


「たの……。いや、お願いします…………」


「…………」


マドレーヌは俺と、後ろのダネルがいる方向にわずかに目線を向けた後、くるっと踵を返して屋敷へと戻っていった。オランジェットと呼ばれたメイドは、悔しげに口元を歪めていた。


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