第8話 遠い地響き
「ああもう、負けたわ!! 負けた!! すごい悔しい!!」
起き上がったシャローズが悔しげに言う。
そしてやや俺を睨むように見つめた後、グッと親指を立てた。
「すごいわ、ローレン。やっぱり聞いてた通り。……おめでとう、ダミアンはあなたのものよ」
「いやいや、ダミアン様は賞品じゃないんですから」
俺がそう窘めるとシャローズはいたずらっぽく舌を出した。
一応の勝利を得た俺だが、しかし内心でシャローズには罪悪感を感じていた。
結局、俺は自らに課した縛りを守り切ることができなかったからである。
よくよく考えれば、あのまま素直に一本取られていてもシャローズは別に納得してくれたかもしれないのだが、とっさの事態に直面すると冷静に考える余裕などなくなってしまうものらしい。俺は終わったばかりの戦闘を振り返り、すこし反省した。
まさか、とっさに氷魔法を使うことになるとは――――。
シャローズが先ほど足を滑らせた地点は、今は何事もなかったかのように元に戻っている。足裏に氷を張り、魔素に還元させたのは実時間にすると数秒程の話で、シャローズ視点からは本当に何が起こったのかわからないだろう。事情を知るマドレーヌがギリギリ察するかどうか……、くらいのはずだ。
「結局何が起こってたのかしら。やっぱり先手を譲ったのが敗因? それでも結局、あの水魔法によって剣が弾き飛ばされていただろうし、最後に何が起こったのか分からなかった時点で…………」
シャローズは顎に手を当ててしばらくブツブツいっていたが、ふと俺に睨むような目線を向ける。
「ねえローレン」
「な、なんでしょう」
「あなた、全然本気出してなかったでしょう」
「そんな……、ことありません。ギリギリもギリギリでしたよ」
「目が泳いでるわよ。まったくもう、ごまかし方までダミアンとそっくりだわ。本当に悔しい。ローレンお願い、もう一戦だけやってくれない? いいでしょう?」
悔しさを隠そうともしないシャローズは、俺に人差し指を突き立てて再戦を希望しだした。しかし俺は首を振る。
「お断りします。試合前に約束したはずですよ、これっきりにすると」
「でも……、だって、こんな負け方すると思わなかったんだもの。だからお願い。次で本当に最後にするから」
「残念ながらお受けできません。約束は約束ですから」
「どうして? お金なら払うわよ? 知ってるかもしれないけどうちってすごいお金持ちなの」
「一国の王女様がなんたる言いぶりですか……」
「ねえ〜、お願い〜。ダミアンの言っちゃだめな恥ずかしい秘密とかも教えてあげるから〜」
「…………えっ…………、いや言っちゃだめな秘密は言っちゃ駄目でしょう」
「あ! 今ちょっと聞きたいって思ったでしょ! ねえ、私こう見えて付き合い長いのよ! ダミアンのことなら大概知ってるわ! 何が知りたいの? ホクロの数? スリーサイズ? それとも内心嬉しいのにそれを必死に隠そうとしてる時に隠し切れていない癖とか?」
……それは正直ちょっと聞いてみたい、と思う欲求を俺は大人の理性でねじ伏せる。こんな暴露のされ方はここにいないダミアンがあまりにもかわいそうだ。
しかしシャローズは俺の本心を鋭くかぎ取って、肩を揺さぶって再戦をねだってくる。
「ねーぇ、いいじゃない。ローレンだって楽しかったでしょう? ねえねえ」
そこで、しばらくやりとりを静観していたマドレーヌが歩み寄ってきた。
「シャローズ様、あまりローレン様を困らせてはおかわいそうですわ。負けは負け、約束は約束、ここはお引き下がりくださいませ」
「むぅ……!」
「それにお召し物が汚れておられます。汚れを落としますので、屋敷の中へ一旦お戻りください」
シャローズはしばらく俺とマドレーヌを交互に見つめていたが、やがて諦めたように頷いた。
「…………はあ、分かったわ。負けは負け、確かにその通りね」
そう言ってシャローズは大人しくマドレーヌに連れて行かれる。
俺は2人が屋敷への階段を上がっていく背中を眺めながら、氷魔法が張られた場所を足で踏みならした。しゃがみ込んで手で触れてみる。少しだけ湿っているが、すぐに乾いてしまうだろう。
「やれやれ、文字通り寝耳に水だったな」
まさか起き抜けに一国の王女と手合わせをする羽目になるとは思わなかった。
しかし、王都の最高魔術師の家に居候していればこういうことも起こりうると、一度心に刻んでおかなければならない。なんなら一国の王だって見える範囲に暮らしているのだから、道ですれ違わないとは言い切れないのだから。
なにはともあれ再戦の提案については、折れてくれて助かった。
そう胸を撫で下ろす一方で、彼女の言っていた「初対面で仲良くなるにはこれが1番」という言葉を、俺も少し実感していた。
手合わせに至るまでの姿勢と戦いぶりからは確かに彼女の人となりが伺えたし、それは言葉を交わすだけでは得られなかったものだ。
そしてきっと逆も然り。
戦い――、と言う観点で見たときにシャローズは非常に優秀な戦士と言えるだろう。
特筆すべきはもちろん彼女のアクロバティックな身のこなしだが、それを累乗的にサポートしているのがあの光魔法。ときに盾となり、ときに足場ともなる柔軟な戦術は、俺が知っているダミアンの戦闘方法ともまた違って興味深い。
先の限られた戦闘時間では正しくそれを測ることはできなかったにしろ、こと光魔法のみに限るのであれば、四属性を等しく操るダミアンよりもシャローズの方が上を行っている部分があるのかもしれない。
と言いつつも、4か月前のあの手合わせの際に、ダミアンが光魔法のすべてを見せたわけもない。
彼女が帰ってきたら、シャローズの名前が出たタイミングで今一度詳しく話を聞いておきたいところだ。となれば、俺が光魔法を使えるようになったこともいい加減話す頃あい。
ダミアンが帰ってくるのは、確か明後日の夕方だったか……?
俺がそんなことを考えながらちょうど立ち上がろうとした時だった。
――――ズズゥン……
という、低い地響きのような音が遠くで聞こえた気がしたので俺は肩をすくませた。
「?」
俺は音が聞こえた方向に首を向ける。しかし塀が視界を遮りよく見えない。巨大な王宮の屋根がいつも通りに見えるだけである。
地面が揺れたわけではないので地震ではないと思う。しかしだとすれば、他にそんな音が出るような心当たりが思い当たらない。ひょっとして気のせいだったろうか――。
「いいえ? 特になにも聞こえませんでしたが……?」
俺が食堂へ戻って尋ねると、ダミアン邸の使用人達は口を揃えてそう言う。
しばらくして帰ってきたマドレーヌも同様だったので、俺は自分の気のせいだったという案を採用しかけたが、唯一シャローズだけはそれを聞いて眉をひそめた。
窓までつかつかと歩み寄ると、桟に手をかけて王宮方向を睨む。
「どうかしましたか?」
「…………ちょっと、心当たりがね」
そぞろな答えを返すシャローズの背中越しに、俺は窓を覗いてみる。ダミアン邸は貴族街の端、幾つもの建物に遮られて見えるのは王宮の頭部分のみだ。
そして、とりあえず見える範囲内には異常らしいものは見当たらない。
「あっちから聞こえたのよね?」
「ええ、でも本当に気のせいだったかもしれません」
「…………いえ、違うみたい。見て」
「え?」
俺はシャローズが指差した方向に目を凝らした。それは王宮の端――、その下半分は建物の影に隠れているが、その向こうにかすかに土煙のようなものが立ち込めているのが分かった。
「多分王宮の闘技場がある方……。やっぱりね……」
歯噛みするシャローズの背後からマドレーヌが声をかける。
「いかがされましたの?」
「マドレーヌには少し話したでしょう? 今、王宮に他国から使者が来てるって」
「ええ、それに巻き込まれるのが嫌だったのも、当家を訪ねてこられた理由とおっしゃっておられましたわね」
おそらく俺が食堂に来る前にそうした会話があったのだろう。
初耳の情報を俺が遠巻きに聞いていると、それを察したらしいシャローズが振り返る。
「――ローレン。ハイドラ王国って分かるかしら?」
「東の国境を共にする同盟国ですね。たしかマギア王国の第二王女とハイドラの王子が婚約を結んでいるとかなんとか」
「そうそう。そして使者が来ているのがまさにその件よ。ハイドラの王子から姉様へのプレゼントを持ってきたらしいの」
「プレゼントを渡すのに使者、ですか。さすが王国間の婚約ともなると規模が大きいですね……。それで、それが何か問題でも?」
「そのプレゼントがあまりに悪趣味なのが問題なのよね……」
「はあ、悪趣味……。一体なんなんですか?」
俺がそう問うと、シャローズはあからさまなため息をついて、わずかに窓の外を見やる。
「当ててみて。絶対に当たらないから」
俺は横のマドレーヌと目線をかわして、シャローズにここまで言わしめるプレゼントとはなんだろうかと考えを巡らせてみた。
「順当に贈り物と考えれば宝石とかアクセサリーとかがベタなところでしょうか。でもシャローズ様の言い振りからするとそういったものではないようなので……、うーん、馬車いっぱいの花束とか?」
「残念、ブー。まあ確かに悪趣味だけれどそれならまだ許せるわ。マドレーヌはどう?」
「さあ、なんでございましょうね。オランジェット、分かります?」
小さく肩を竦めたマドレーヌが、後ろに控えていたオランジェットを振り返る。
「敵国兵の生首などでしょうか、もしくはそれらの頭蓋骨を用いた装飾品など……」
「ナチュラルにその発想が出てくるの物騒すぎるのだけれど……」
案外本気で言っていそうなオランジェットに周りが少しひいた所で、シャローズはクイズを打ち切って答えを明かした。
「……10頭のゾウよ。はるばる隣国から長い道のりを、巨大な荷馬車に乗せて連れてきたらしいわ」
「ゾウって…………、あ、あの象ですか……?」
「この国にはいないけど絵本なんかで見たことはあるわよね? 鼻が長くてとにかく体が大きな動物。ハイドラ王国の草原には群れで生息していて、私は何度か野性の象を見たことがあるけれど、それを戦闘向けに人間が飼い慣らしたもの。戦象って言ってたかしら」
そこへマドレーヌがちょうどよく書棚から一冊の本を取り出して、テーブルに広げる。
動物図鑑ではないのでやや簡略化されていたが、前世の知識で知っている象とおよそかわらない姿が挿絵で描かれていた。
動物園などがないので、俺もこの世界の象を生で見たことはない。本を覗き込む使用人達の様子から、王都に住んでいても似たようなものなのだろうことが窺えた。
挿絵の象の脇には人らしき影が立っており、象の代名詞たる巨大さが世界線を隔てても変わりないことが示されている。
この世界と以前の世界の生態系はほぼ共通している。
全く別種の生態系が根付いていても本来はおかしくないだろうと思うのだが、この世界の動物で以前の世界にいなかったものはない。
なにか納得できるような理由づけが可能かどうか――、それを今の俺には知る術はないが、よく考えれば人間の姿が共通している時点で不思議といえば不思議なのだと思い出す。
ともあれ――、
「なるほど。これを10頭、婚約者にプレゼントですか。それは確かになんというか……、悪趣味ですね……」
「でしょう? しかもその象達同士を戦わせる催しを開くと言っていたわ。お父様は面白がっていたけれど、姉様は本当は血生臭いのが苦手なの……。もはやプレゼントというよりも嫌がらせよ」
シャローズはそういった文化を心底忌避しているのだろう、不快さを隠そうともせずに吐き捨てた。なるほど王宮を抜け出したくもなろう。
そして、俺はシャローズがこの話をし始めたきっかけを思い出して得心した。
「なるほど。その催しが今まさに、闘技場で行われていて、俺の聞いた地響きのような音はそれですか……」
「多分ね。あの土煙もきっとそう。
……まったくもう、無理やりに動物達を争わせて怪我をするのを見て楽しむなんて気がしれないわ。気分が悪くなったから口直しにお菓子を用意して、マドレーヌ」
「かしこまりました。しかし、ローレン様と無理やり手合わせをしたがった方とは思えない言い振りでございますこと」
椅子に腰をかけてお菓子を所望するシャローズに礼をしながら、マドレーヌがチクリといつもの毒舌を発揮する。
そしてそれはシャローズの痛いところをついたようだった。
「――ぐっ、そ、それとこれとは違うでしょう!? え、違うわよね、ローレン!?」
「え、ええ、そうですね」
「目が泳いでいるわ!!」
シャローズが狼狽えながら俺をすがるように見上げて叫ぶ。それを見て周りの使用人達はクスクスと笑った。
少し剣呑な雰囲気が流れていた食堂は、再び柔らかな雰囲気に包まれる――――、
そう思った時であった。
まるでその願いを断ち切るように、先ほどとは比べ物にならないほど大きな轟音が響き、それは屋敷をも揺らした。
「――――!?」
部屋に取り付けられたシャンデリアが揺れ、窓ガラスがカタカタと音を鳴らす。
食堂にいたものは皆一様に硬直し、顔を動かさずに目線だけを交わした。
音としては1度目に聞いた地響きのそれに近い。しかし問題なのは、音の大きさと方向がさっきとまるっきり違っていることだ。
やがて揺れがおさまったのを理解して、俺はバッと窓を振り返った。
そして目撃する。王宮ではなく、貴族街の街並みからもうもうとあがる土煙を。
俺は言葉を発することができず、遠くで上がる土煙をただ見つめていた。俺は先ほど聞いたシャローズの話を想起し、最悪の想像を得た。しかし直後、まさかそんなことは起こるまいと思い直す。
仮にも王宮の闘技場だ、人も設備もしっかりしているはず――――、
「――ダ、ダミアン様はいらっしゃいますか……!?」
突如、俺の希望的観測を断ち切るように、屋敷の前門方向から叫ぶような声が響いてくる。
食堂にいた人々が、その声の主を確かめようと反対方向の窓を押し開く。そこから、ダミアン邸の門扉に手をかけている1人の甲冑を纏った男の姿が見えた。
俺たちは一様に、その姿を見て息を飲む。
なぜならその兵士は頭部から少なくない血を流し、痛みに顔を歪めていたからだ。
「お、王宮から街へ象が数頭逃げ出しました!! 是非とも、ダミアン様のご助力をいただきたく――!!」
その声に重なるように、カンカンカンカン――という、緊急事態を知らせる鐘の音が響いてきた。
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