第9話 暴れる巨象
事件はある日突然襲ってくる、しかも立て続けに――。
それはナラザリオの騒動で得たはずの教訓だが、今日がその日だとは思わなかった。
屋敷を訪ねてきた憲兵はダミアンの不在を聞くと、悔しげな表情をしながら元来た方向へと踵を返した。その憲兵からは【象が街に逃げ出した】という最低限の情報しか聞くことはできなかったのだが、鳴り響いている鐘からも事態が冗談で済むものでないことはわかった。
「まったく何をしているのかしら! 責任者が誰かは知らないけれど、帰ったらちゃんと怒らなきゃ!」
腰に手を当ててぷりぷりとするシャローズの後ろから、難しげな表情のマドレーヌが言う。
「シャローズ様、事態が落ち着くまで王宮にはお帰りにならない方がよろしいかと思いますわ。恐れ入りますが、今しばらく当屋敷でお待ちいただけますでしょうか」
「それがいいわね。なら、いっそ泊まって行こうかしら」
「当家といたしましてはその用意もございますが……、そう言えば本日ケリード様はどうされたのです?」
「さあ、まだどこかで私を探しているんじゃないかしら。商業地区に遊びに行くって嘘をついて飛び出してきたから当分来ないと思うわ。もしくはケリードも象の捕獲の方に向かってるかも」
「まったく……、お気の毒ですこと。ではとにかく、ケリード様が迎えに来てからまた状況を鑑みて判断すると言うことでよろしいですか?」
「ええ、それでお願い」
「かしこまりましたわ。さしあたってお部屋をご用意いたしますので、それまでは応接間でお待ちくださいませ。ローレン様も自室に控えていただき……。そうですわ、先に言っておきますが万が一ということがありますので、間違っても外には出られませんように」
「わ、分かりました……」
万が一というのは逃げ出した象の被害がここまで及んだ場合、ということだろう。
まあダミアン邸は王宮から離れているし、すこし入り組んだ場所に建っているので大丈夫だとは思うが……。
しかし気を緩めることを許さないと言うように、ズゥン、ズズゥン……、という物騒な音が再度響いてくる。街の向こうに上がる土煙はひとつではない、徐々に数を増やし大きさも増しているように見えた。
「――――!」
そこで俺はふと思い至る。
王宮から象が逃げ出して貴族地区を逃げ惑っているのだとすれば、その被害が及びうる範囲内には当然魔術教室の生徒たちの住む家があるはずだ。
俺はそれぞれの家がどこにあるかまでは知らないが、果たして彼らはいま安全を確保できているのだろうか――――。
脳裏に先の怪我をした憲兵の姿が浮かび、背筋に冷ややかなものが走った。
「あ、せっかくだからローレンの部屋でお話しをするのがいいわ。さっきの試合で聞きたいこともまだあるし…………、あれ? ローレン?」
「…………」
大丈夫、それぞれが大層な家のご子息ご令嬢なのだ。各家には彼らを守るべき者たちがちゃんといるはずだし、塀や外壁もしっかりしている。家の中に控えてさえいればおよそ巻き込まれることはないだろう。
俺は嫌な予感を振り払うように、自分自身にそう言い聞かせる。
しかし、マドレーヌが危惧したように、物事には万が一ということもある……。
ルフリーネが外で遊んではいないか、心配性なレレルが不安がってはいないか、アメリジットが気づかずにどこかで眠りこけてはいないか、カイルが実力試しと騒動に首を突っ込んではいないか……。一度そんな想像が浮かぶと、それを振り払うのはなかなかに難しい。
マドレーヌは間違っても外には出ないようにと釘を刺した。
そもそもが1人での外出を控えるように言われている期間中、大人しく自室で事態の収束を待つのがどう考えても正しい。
正しいのだが――。
「ちょっと、聞いてるのローレン!」
「!」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。元々王都のあちこちには警備のための国家憲兵が配置されてるし、いざとなれば騎士団も出張ってくるでしょう。お父様達にも面子があるからすぐに事態は収まると思うわ」
「…………しかし、逃げ出した象は見せ物として戦わされていたんでしょう? 興奮した象を街中の限られた通路で捕らえるのはかなり至難ではないかと、どうしても心配で」
「お気持ちはわかりますわ、ローレン様」
生徒達を心配する俺の内心を見透かしたのだろう、マドレーヌが小さく頷きながら言った。
「しかしダミアン様不在の今、ローレン様に何かあっては申し訳が立ちません。どうかご辛抱を」
「――ええ、わかってます。大丈夫です。……じゃあ、着替えたいので部屋に戻ります」
「かしこまりました」
俺は短く会釈をして食堂の扉を出た。
扉を閉めようとした時、シャローズが俺の名を呼ぶ。
「ローレン……、あなた……」
「……はい? なんでしょう」
俺が振り返るとシャローズが扉の隙間越しに俺と目を合わせる。
シャローズはしばらくじっと見つめるようにしていたが、すぐに首を振って「いいえ、なんでもないわ」と言った。
俺は部屋に戻ると、息を大きく吐き「すぐに行って帰ればバレないはず……」と呟いて扉の鍵をそっと閉めた。
○
現場に到着すると、既に状況は惨憺たる有様だった。
王都が誇る美しい貴族地区大通りの景観は、転がる瓦礫と倒れる憲兵たちの姿で目も当てられない。
俺は、右に左に牙を振りながら、足元の憲兵たちを蹴散らしている巨大な象を眺めてため息を漏らさざるを得なかった。
「ゲレオール様!」
憲兵の1人が俺の姿を見て駆け寄ってくる。
「現況は」
「み、見ての通りであります。我々憲兵団では手に負えず、ぜひとも騎士団長殿のお力添えをいただきたく……!」
「まったく、街を守るのが国家憲兵団の領分であろうが。貴様らに持たせている剣はおもちゃではないのだぞ。さっさと殺さないか」
俺がそう吐き捨てると憲兵は唇を噛んで、目を伏せた。
「め、面目次第もございません……。しかし決して傷つけずに捕獲しろ、街への被害も最小限に留めろとの伝達があり、現場でもどう対処していいものやら」
「この期におよんであの獣の心配だと……? どこの馬鹿だそんな命令を下したのは」
「け、賢人会の方々からです。なんでも、ハイドラの王子からの贈り物だそうで……」
「……あれがハイドラから来たというのは知っている。知っているからなおさら馬鹿だと言っているのだ。さっきまで自分たちで戦わせておいて今更傷つけるなとはなんと身勝手な物言いだ、愚か者どもが……!」
「ゲレオール様、賢人会の方々を愚か者とはさすがに」
「何が賢人、こちらは毎度毎度やつらの尻拭いをさせられているのだぞ。あんな黴臭い爺どもなど、どこぞの田舎で絵本でも読ませておくのがちょうどいいと……」
俺はそこまで言って、小さく舌打ちをした。
一憲兵にこんな不満をぶつけても事態は何も好転はしない。こんな面倒でも仕事は仕事。金をもらっている以上、任務は完遂せねばなるまい。
俺は腰の剣にそっと手を乗せて、少し考えた後に手を離した。
「――――」
殺していいならいくらでもやりようがあるが、あの巨大な生物を無傷で捕まえろとは確かに難題だ。広場に落ちているものの中にはちぎれた綱や鎖が落ちており、真っ当な方法が既に通用しなかったことを示していた。
「ゲレオール様、私どもは何をすればよろしいですか」
「……貴様も右肩を怪我しているのであろうが、怪我人は怪我人らしく引き下がっていろ。転がっている奴らも邪魔だ、さっさと片付けろ」
「! はっ、失礼しました……!」
俺が顎をしゃくると、憲兵は敬礼をして走り去っていった。
「――もう一度だ、光魔法が使える者……!!」
「無駄だ、我々の光魔法はこいつにとって角砂糖ほどにも感じていない!」
「だとしてもだ、せめて向かう先を制限せねば、いつどこの屋敷に突っ込むかわからないぞ……!」
「くそ……っ!!」
それぞれに負傷の跡が見える憲兵たちは束になって暴れ狂う象を押さえ込もうと苦闘している。俺はまるで蟻のように転がされる憲兵たちを見て嘆息した。
足元の瓦礫を拾い上げ、象のケツに向かって思い切り投げる。
拳二つ分ほどの石の塊も象の分厚い皮膚に傷をつけることはなく、妙な音を立てた後に地面に落ちるのみだ。
しかし、あれほど分厚い皮膚に覆われていようとも一応感覚はあるらしく、象はがばっとこちらを振り向く。振り向いた頭にもうひとつ瓦礫が当たって砕けると、象はわかりやすく敵意を俺へとシフトさせた。
牙の先から逃れ得た憲兵たちが、俺の姿に気づく。
「ゲ、ゲレオール様だ……!」
「助かった……!」
露骨に安堵の表情を浮かべ、あまつさえ地面にへたり込む憲兵たちを、俺は大声で叱責する。
「立て、馬鹿者どもが!! こんな獣一匹に揃いも揃って遊ばれおって! 帰ったら憲兵団長に文句をつけさせてもらうからな!!」
「ひっ……!!」
「邪魔だ!! とっとと失せろ!! 周辺住民の避難と怪我人の収容くらいは貴様らでも出来るだろうが!? …………返事ィ!!」
「――――は、はいぃ!」
憲兵たちは悲鳴のような声を上げながら、それぞれに敬礼をして散っていった。そんな間にも大きな鼻息をもらす象が、牙の狙いを定めながら俺へと迫ってくる。
何気なく振った鼻が、脇の噴水にあたって美麗な装飾に大穴が開く。確か隣の国と友好の証に建設された由緒ある噴水だったはずだが、畜生にそんなことを説明したところで分かるはずもない。
随分と暴れ回ったおかげで石畳が割れ、土が剥き出しになった広場をさっと眺め見た。
王宮の連中はさぞ文句を言うのだろうが、俺にとってしてみればむしろありがたいくらいだった。自ら俺が戦いやすいように場を用意してくれたのだから――。
「――――」
俺はまず自分の周囲を渦巻くように風を巻き起こす。
足元に散らばった小石や砂がそれに巻き込まれ、それはうねる一陣の風となって真っ直ぐ向かってくる象の顔面に吹きつけられた。
蛇のようにうねりながら、俺の操る砂塵がまず象の片目を直撃すると、象が露骨にその体をよじらせて悲鳴に近い鳴き声をあげた。生き物であるかぎりもろい部分はある。
俺は続いて砂塵を操り直して、長い鼻先へと潜り込ませた。象は体内に容赦なく入り込んできた異物に体を震わせてその場を暴れ回っていたが、やがて耐え切れないようにくしゃみを連発し始めた。
視界も奪われ、苦しそうに悶えてその場をくるくる回る象は、先ほどまでの暴れていた様子から一転してひどく小さく見える。
俺はその場にしゃがみこんで剥き出しの地面に手を当てる。そこに魔力を流せばしばらくののちに、象の足元から石畳を突き破って土が盛り上がり、体を包み込むように迫り上がった。
象は感覚的にそれを拒絶し、なんとか逃れんとする。
――が、土は崩しても崩してもしつこく体を覆い固めようとしてくる。しかも次第に鼻や口にも土は入り込み、呼吸もおぼつかなくなる。しぶとく足掻いていた象だが、やがて糸が切れたように、がくりと動かなくなった。
俺は振り返り、離れて戦闘の様子を伺っていた憲兵たちに怒鳴った。
「おい、ボンクラ共!! 何をボサボサしている!! 早く鎖と首輪を持ってこないか!! 次またいつ暴れだすかわからんぞ!!」
俺の怒鳴り声にはっと身を震わせた憲兵たちが、あわてて動き始める。そして彫像のように固まった象に首輪がはめられかけたその時――――、
背後から人の悲鳴。そして何かが壊れる大きな音がして、俺は振り向いた。
「ッ!!」
そこには身体中に縄や鎖を巻きつけられながら、それを引きずり突進してくるもう一頭の象の姿があった。
象が現れたのは建物を挟んだ向かいの通りから、象は煉瓦造りの建物をまるで積み木のように突き破ってこちらへ向かってくるのである。
広場には大人しくなった方の象を捉えようと、憲兵たちがひとところに固まってしまっている。しかも俺は動き出そうとした時のために、まだ地面に手を当てて魔力を込め続けている最中だった。
しかしそんな事情などお構いなく、あるいは仲間がひどい目にあっていると思ったのだろうか、巨大な岩のような生物が目の焦点も定まらないままに体当たりをしにくる。その様は、いかなる者にも等しく死の恐怖をもたらすだろうと思われた。
俺は急ぎ地面から手を離し、魔力の矛先を移す。ここから猛突進してくる象を止めるにはさすがに時間が足りない。
しかし、俺の背後には驚きと恐怖で固まった数十人の憲兵たちがいるのだ。
逃げるわけにはいかない、俺は短い時間で用意できる最大限の魔力を風魔法として前方に――――。
ゴォンッ……!!!!
鈍い音が広場に響いた。直後、巨体が力なく地面に倒れ込む。
「――――あ……?」
俺が声を漏らしても、すでに頭を打って脳震盪を起こして倒れる象はただ沈黙するだけだ。周りの憲兵たちに「何が起こった?」と問うても、等しく間抜けな顔をしているばかりだ。
強いて言えば、屋根の上に人の影のようなものを見かけた気がすると申告した者があった程度だった。
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