第33話 決別


早朝のナラザリオ邸に爆発するような音が響いた。

地面が大きく揺れ、屋敷の窓が震え、その衝撃はまだ寝ぼけ眼だった屋敷の住人を等しく揺り起こした。


俺は叫ぶ。



「ドーソン・F・ナラザリオ!! 降りてこい!!」



地下牢から抜け出した先は裏庭だ。

見上げれば、窓の奥で使用人たちが俺の姿を捉えて狼狽る様子が見える。

俺は杖を握りしめ、ドーソンの部屋がある方角だけを睨み付けた。


「な、何をしている、貴様ッ! 一体どうやって……!?」


当然、ドーソンより先に駆けつけてくるのは衛兵たちだ。彼らは地下牢から地上に向けて開いた大穴を見つけ、俺の姿と交互に見比べて騒ぐ。


「とにかく囲め! 団長殿はまだか!」「あいつが手に持っているのはなんだ!」

「確かに身体検査はしたはずだぞ!?」


剣を手にジリジリと取り囲む4、5人の衛兵を眺め見て、俺は手元の杖を僅かに振る。

すると俺の背後に無数の氷の球が発生した。


「それ以上近づかないで下さい。俺が用があるのはドーソンだけです」


「ふ、ふざけるな貴さ――――、あがっ!」


俺の忠告を無視し、憤然と一歩踏み出してくる衛兵の剣が氷魔法によって弾き飛ばされる。俺は動揺する衛兵たちの顔を見て、改めて忠告をした。


「今のが頭に当たればどうなるかくらい分かるでしょう。弾は無限にある。だが、近づいて来なければこちらから危害を加えることはしません」


「くっ!」「おい! 団長殿を早く……!」


「 団長ではなくドーソンを呼べと言っている!!!」


話の通じない衛兵たちを、俺は再度怒鳴り上げた。

氷柱が波となって扇状に広がり、アイスピックのように鋭い先端が衛兵たちに向けられた。それは威嚇であると同時に、境界線でもある。


衛兵たちは怯えるような目線を交わしたあと、数人が屋敷の方へ向かって行った。



しばらく待った後、甲冑の仕様が1人だけ違う背の高い男が現れる。

俺はこの男を覚えている。昨日俺の首に剣を当てた男だ。


「……耳が付いていないんですか。俺が話があるのは団長殿ではありませんよ」


「ドーソン様とお会いさせるわけにはいかない」


「何故」


「君が犯罪者だからだ。伯爵殿に危害が及ぶようなことは一切容認できない」


「少し話をするだけです。危害を加えるつもりはない」


「君は、昨晩自分が何をしたのか忘れたのか」


衛兵団長はなるべく俺を刺激しないような声音で言うが、その右手はしっかりと剣の柄に添えられていた。客観的に見れば当然の対応か、と俺はため息をつく。


「……なら仕方ない。こちらから訪ねるしかありませんね。部屋の場所なら幸い知っていますから」


俺が一歩足を踏み出すと、憲兵全員が一斉に身構えた。


「待て! そんなことをさせるとでも思っているのか! 今その手に持っているものを放せばまだ間に合う。冷静になりなさい」


衛兵は冷や汗を額に浮ばせながら声を上げる。

だが本当に落ち着かせたいのならば、肝心の説得部分があまりにもお粗末だ。


「一体、何が間に合うんです? このまま牢に戻ってそれから大人しく殺されろと?」


「……! それでも、これ以上罪を重ねることはない! 君とて人殺しにまで堕ちたくはないだろう?」


思わず笑いが漏れた。


「人殺しを捕まえたいんですか? ならあなた達が必死に守ろうとしている伯爵殿とやらを牢にぶち込めば仕事は終わりですよ」


「ど、どういう意味だ?」


「ここで罪の所在について議論する気はありません。俺の嫌疑を晴らしてほしいとも、もはや思わない。ただあの男とは話をしなければならないんです。今俺が屋敷に入ることが好ましくないのは理解している。だから最初からここへ来いと言っているんです。俺の目は理性を失った犯罪者のそれに見えますか?」


「し、しかし、いくらなんでもその要望は……」


話にならない、と俺は断じた。


「ドーソン!! お望みならここで全部要件を叫んでやろうか!! 俺は別に構わないぞ!!」


俺が叫んだその直後、横から足音がする。

その場の全員の視線がそちらに向けられた。


顔を見せたのはドーソン・F・ナラザリオ――、昨晩まで父だった男である。

俺はようやく出てきたドーソンに杖を構えて言う。


「その顔は、状況を察している顔だな」


ドーソンは俺の口ぶりに一瞬怪訝な顔をしたが、しかし何も言わない。

かわりに団長の方を向いて、ぎこちなく顎をしゃくった。


「……いい。下がれ」


「?! ドーソン様、何を言っておられるのですか! 彼はもはや丸腰ではありませんよ?!」


「下がれと言っている。全員だ。屋敷の者も誰もこの場所には近づけるな。

 …………聞こえないのか」


団長は目を丸くしながらも、やがて衛兵たちを引き下がらせた。


朝の裏庭に、俺たちはついに二人きりになる。

まるで銃口のように杖の先を向けられたドーソンはここからでも分かるほど肩を震わせていた。ドーソンが絞り出すように声を出した。


「その枝は、どうした……」


「今のお前に質問をする権利があると思うのか」


俺が昨日されたのと全く同じ返答を返すと、ドーソンは言葉を失う。

今、2人の間に鉄格子はない。それだけで、かつて父親だった男は今やあまりにも小さく見えた。


「わ、私を殺すつもりなのか……?」


「それは、殺される心当たりがある奴の台詞だな」


「い、言っておくが、お前を牢に入れたことなら、私は領主として当然の振る舞いをしただけだ!」


「そうか? もし本当に恥じるところがないのであれば、ここへ来る必要も、人払いをする必要もなかったはずじゃないか。自分が悪事を働いたということをはっきり自覚しているはずだ」


「悪事とは、一体何のことだ……」


俺は煮え切らない態度のドーソンに嫌気がさし、一歩近づいて言う。


「よくも俺を嵌めたな、ドーソン」


俺は杖先から氷の球を生成し、足元に向けて一つ発射した。

その勢いで地面の一部が抉れて飛び散る。ドーソンは「ひい」と悲鳴をもらし、こけそうになった。


「昨夜、最後にお前が言い残した台詞で俺は全部理解したんだ。不注意だったな。ようやく俺が死んでくれると思って油断したのか?」


「わ、分からない! 何を言っているのかさっぱり……!」


「階段から突き落とそうとしたのも、俺の寝室に魔法が飛んできたのも、殺し屋を雇ったのも、全ての黒幕はお前だということだ。俺が魔法に目覚める前から、そして目覚めた後も、俺を殺そうと執拗に画策したんだろう」


「!!」


「昨日は何度死にかけたか分からない。俺がこの屋敷に戻れたのは本当に幸運だった。だがお前は入念にも、俺を殺しきれない場合に備えて屋敷の者にも手をかけた。俺に全ての罪をかぶせて断罪をするために。――自分の屋敷の者に、手をかけたんだ!! 自分が何をやったか分かっているのか!!」


「――――ッ! ど、どこにそんな証拠がある! 全てお前の妄想ではないか、馬鹿馬鹿しい! その事実を触れ回ったとして誰が信じる!?」


ドーソンが俺に呼応するように声を荒げた。

だが威勢がいいのは声量だけで、ドーソンの目線は俺とは別の場所を泳いでいる。


「確かにお前が黒幕だという事実を立証する術は、今の俺にはまだない」


「当然だ! だからそう言って――」


「だが、お前にとっての問題は誰でもない俺がそう確信しているという事だ。

今の俺にはお前を私的に裁くがある。それに言葉でいくら逃れようとも、お前の態度が分かりやすく罪を認めているじゃないか。せめて俺の目くらいまっすぐ見たらどうなんだ……!」


「――わ、私は……ッ!!」


ようやくまともに、ドーソンと俺の目が合う。


「私は、なんだ?」


俺がその先を促すと、ドーソンは下唇を噛んで体を震わせた。

反論を必死に探しているらしいが、何も出てこない。ドーソンはまたも目線を地面に落とし、悔しげな表情を浮かべている。その態度がもはや自白に等しいと気づいていないのだろうか。


キイイ、という音とともに鋭い冷気を発する氷の刃が宙に現れる。

それはドーソンの頭のまわりをゆっくりと回った後、ピトッと首に添えられて止まった。


「――――」


ドーソンが全身を粟立たせた。俺が少し力を入れれば、たやすく首に切れ目が入るだろうことを悟る。足ががくがくと震えているが、首元に鋭い切っ先があてがわれていては膝をつくことさえ出来ない。


「ここからは言葉を選んだほうがいい。お前が今選べるのは、真実か死かだ」


ドーソンは俺の魔法が脅しではないことを理解し、やがてがっくりと肩を落とした。


「お、お前には、すまないと、思っている……。お前からすれば、あまりに理不尽だと、怒るのも当然だ。だ、だが、私にもナラザリオ家当主としての立場があった……。これは、やむを得ない決断だったんだ。だから、許してくれないか。息子よ……」


「――息子だと?」


俺は余りにも今更な台詞をのうのうと吐いたことに驚き、そう問い返す。さらに強おく氷の刃を押し当てた。


「そのつながりを断ったのはお前だろうが! 俺など生まれてこなければよかったと言ったのも、息子ではなく一人の人間として裁くのだと言ったのもお前だ。それが今更、許せ息子よ、だと? どれだけ面の皮が厚ければそんな台詞が吐ける……!」


俺の熱と反比例するように、氷の魔法は冷気を際限なく増していく。

ドーソンの首元に、ぞわりと霜が走った。


「ひっ……! わ、わ、悪かった! その通りだ、あまりにも虫がいい言葉だった。すまない。だが、悪いと思っているのは本当だ。何が望みだ。私はお前に、ど、どうやって償えばいい……?」


「俺が今更、償いなど求めていると思うのか? この屋敷で変わらず暮らせるよう望んでいるとでも? じゃあなんと説明するつもりだ。お前の口から、雇った殺し屋が俺の姿をして襲った、全て自分の企みだったと白状するのか」


「――――、そ、それはまずい。それだけは。だが、何かうまい方法で誤解は必ず解くと約束しよう!」


「一度ならず二度、二度ならず三度も俺を殺そうとした男の言葉を信じられると思うか? これからまた人殺しと仲良く家族ごっこを続けろとでも言うのか。どうやっても、もう元の家族には戻れない。お前が、それを壊したからだ!」


「お前が怒るのももっともだ。だ、だが……、では、どうすればいい! どうすれば許してくれるんだ……!」


ドーソンは俺に縋るように許しを請う。これもまた、昨夜の立場とは真逆である。

だがそれゆえに、俺はこの男と同じ人殺しに身を堕とすのは御免だと思った。それは同情というより、嫌悪感に近かったかもしれない。


「なら――、お前が家を出て行け。伯爵という身分を捨て、一族の金も名誉も捨てて消えろ。そうすれば俺はお前を許し、この屋敷で暮らしてもいい」


「で、出てい…………?」


ドーソンが愕然と顎を震わせる。

顔から汗とも涙とも判別が出来ない汁が滴っていた。


「そ、そんなこと出来るわけが……! 出来るわけがないだろう……!! そんなもの、もはや殺されるのと同義ではないか! 頼む、他の事なら何でもする! だからそれだけは勘弁してくれ!」


「…………」


俺は縋りつこうと伸ばされるドーソンの手を払いのけた。

それを見て、ドーソンの顔がいよいよ絶望に染まる。


皆に真実を明かすことはできない。

だがこの屋敷を捨てても生きていけない。


絶望の表情から低俗な葛藤が透けて見えるようで、いよいよ嫌気がさす。

俺はその表情をもはや見ていることが出来なかった。自分の心がどこまでもどす黒く染まっていくようで、耐えきれなかった。


そして、今までに溜まりに溜まった思いを浴びせかけても、全く俺の心が晴れていないことにも気が付いた。


俺は自問自答する。

俺がしたかったのは、こんな復讐か? 

罪を認め、無様に許しを乞うているドーソンに然るべき報いを受けさせれば、俺は満足なのだろうか。


胸の中で、ロニーがゆっくり静かに首を振った。

俺もまた、それに頷いた。


「お前には今の地位を捨てることが出来ない。何故ならお前と言う人間は、ナラザリオ家という地位があって初めて保たれるような、薄っぺらな人間だからだ。だからお前はその椅子にしがみついている」


「お、お前の言うとおりだ。この家は私の全てなんだ。頼むから、私から奪わないでくれ、頼む…………」


「ああ、くれてやるさ」


俺は吐き捨てるように言うと、杖を振る。

氷の刃は砕けてバラバラになり、雪の粉が宙を舞った。

ドーソンが糸が切れたように膝から崩れ落ちる。そして、信じられないと言うように問い返してくる。


「い、今、何と……?」


俺は視線を外し、今日まで自分が暮らしてきた屋敷を見上げた。

朝の陽光を背にするそれは薄く影がかかり、沈黙の中に何かを語りかけてくるような気がする。


「……お前が必死にしがみついているそれには興味がない。ナラザリオという家名も、豪邸での安定した暮らしも、長男という境遇も要らない。俺が今後の人生をささげる魔法の研究に、それらは必要ない。ならば、全て捨ててやるとも」


「――――」


「俺の望みを言う。二度と俺に関わるな」


「そ、それは、つまり……?」


ずっと透明人間として暮らしてきたとはいえ、俺にも思い出くらいある。

果たしてこれは後悔だろうか、それとも未練だろうか。

そうでなければ、俺の胸を締め付ける寂しさの正体は何だろう。


16年間という決して短くない時間の、重みなのだろうと思った。


ダミアンからの王都への誘いを、俺は元々承諾するつもりだった。

家のことはヨハンに任せ、研究の道へ進もうと決心を決めかけていたのだ。

その順序が少し変わっただけ。そう思えば、案外名残惜しさもなかった。


「俺は自分の意志でこの屋敷を出て行く。お前に追い出されるのではなく、確固たる自分の意志でな」


「で、出て行く……? 一体どこへ」


「関わるな、と言っただろう。念押しをしておくが、俺だけはお前の罪状を知っている。もし今後、お前からの干渉を感じたら、その時は今度こそ躊躇せずお前を殺しに動くからな。たとえどこの誰を差し向けようと、俺は必ず生きてお前のもとに姿を見せる。これが脅しではないことは、もう嫌というほど味わったはずだな?」


「――――そ……。わ、分かった……」


ドーソンは四つん這いのまま、うなだれるように頷いた。

屋敷の方からは無数の視線が注がれているだろう。使用人たちは、罪人であるはずの息子に向かって、泣きながら頭を下げる主人をどう見ているだろうか。

そんなことを思いつつ、もうひとつ尋ねる。


「ヨハンはまだ、部屋で寝かしつけているのか」


「あ、ああ。ヨハンは昨夜からずっと、部屋で何も効かせないようにしている」


俺は小さく息を吐き、ドーソンに顔を近づけた。


「ヨハンに俺の事を何と伝えるかは知らんが、絶対に余計な心配をかけさせるな。

俺がお前を生かしてやるのは、お前と同じところへ堕ちない為だけじゃない。ヨハンを人殺しの息子にも、人殺しの弟にもしたくないからだ。せめて、あいつにとってくらいはいい父親を演じろ。俺に出来なかった分の愛情を注げ。人生を懸けてだ」


「わ、分かった。全てお前の言うとおりにすると約束する……!」


ドーソンは震えるように小刻みに頷く。

それにどれだけの信ぴょう性があったものか分からないが、まともな危機感があれば、言う事には従うだろう。ドーソンからすればヨハンだけは手放すわけにはいかないはずだ。今の地位を失わないためにも。


「…………」



用件は言い終えた。

そう判断した俺は立ち上がり、ドーソンに背を向けた。

目線の先には邸外へと続く朝焼けの道が伸びている。


俺はポケットに手を突っ込む。


一か月を費やした研究資料も、せっかく依頼して作ってもらった実験器具も、ひそかに工面した金も、何も残っていない。あるのは結局誰が仕向けたのか分からない魔法の杖と、無意識にポケットに入れた水晶の欠片だけだった。


振り向けばドーソンは力なくうなだれている。

俺はそれを一瞥だけして、一歩を踏み出そうとした。それを止めたのは、弱々しい問いかけだった。


「ロニー。私を、う……、恨んでいるか……?」


それは昨日の朝、かけられたものと同じ問だった。

しかし、たった1日の間にあまりにも多くのことが起き、見える景色は全く変わってしまった。俺は答えず、逆に問い返す。


「お前はロニー・F・ナラザリオを愛していたか?」


地に手をついたドーソンの顔が、先ほどまでとは違った形に歪んだ。しばらく小さく唸ったままで、問いかけの意味を探っているようにも見えた。


「……ああ。ロニー、私は――――、ぐうっ!」


言葉の途中でドーソンが後ろに倒れ込む。

殴り方が下手だったのだろう、ジンジンという鈍い痛みだけが手に残り、俺は大してスッキリもしないものだなと思った。


「お前にも一つくらい本物の理由を用意してやる。ナラザリオ領領主に手を上げて追放――、それが俺の罪状だ」


ドーソンはもはや何も言わなかった。

俺は改めて足を屋敷の出口へと向ける。

そして、もう二度と振り返ることはなかった。





俺は街を迂回し、プテリュクス湖で杖の予備を回収した後、最短でナラザリオ領を抜ける山道を歩いていた。と言っても1日で超えられる山ではないし、宿があったとしても金がないからどのみち野宿になるだろう。


「…………」


とぼとぼと歩く自分の足元を見つめながら、これでよかったのだろうかと自問する。

そして、これしかなかったのだと言い聞かせる。

あれ以上ドーソンを痛めつけても、奴がやったことを全て明かしても、日常はもう戻ってこない。何よりも田舎貴族のしがらみや、薄暗い企み、後継問題などにはもうウンザリだった。


「せめて、俺が消えたことによって皆に日常が戻るのならそれが一番いいはずなんだ。俺が見えていなかった頃に戻るだけなんだから」


そう呟く。

瞼を閉じると否応なしにヨハンやカーラと過ごした楽しい日々が思い起こされる。

だが、それはもう戻ってこない日々だ。そう割り切らなければならない。


「さて、何にせよ問題はこれからだ。食料を確保しなければいけないことを考えると、まずは稼がないとな。しかし、この格好じゃあ……」


俺はそこで自分が着ている服をくるっと眺め見る。泥だらけの洋服、背中には痛々しい血の跡が残っている。まともな店なら立ち入りさえ断られるだろう。洗って落ちるレベルじゃないよなあと思いつつ、服をめくってみる。すると、ナイフが刺さったはずの場所に指が触れた。


そこにはすでにかすかな凹凸しか感じられず、瘡蓋さえできずに皮が張っている。本来なら全治数か月となっていたはずの傷が、である。


「今回の一件で残っている大きな謎の一つだな。殺し屋が何故消えたか、そして俺の傷がなぜ癒えているのか」



「あ、それ、ボクのおかげボクのおかげ!」



「!?」


突如聞こえた声に、俺は驚いて山道を見渡した。しかし俺以外に人の姿はない。

確かに、すぐ近くから声が聞こえたと思ったのだが――。


そう思った瞬間、するりと何かがポケットから抜け出す感触を得る。

水色の紐のようなものが視界をよぎって、目の前に浮かんできた。


「ん? あれ、どこだここ、丘じゃないや。もしかして夜明けちゃってる? あ~、やっぱり元となる魔力がこんな欠片だと時間間隔も狂うんだなあ」


「セ、セイリュウ、お前、何で……!?」


「知らないよ。何でボクここに居るの? ああ、でもキミが生きてるみたいでよかった。ボクが必死に守った甲斐があったってことかな?」


「はあ……?」


絶妙に噛み合わない返事を返しながら、セイリュウが俺の首元に巻き付く。


「とりあえずあの後、何があったか僕に説明してみたまえよ。見た所、どこかへ行く途中なんだろ? いいねえ、ボク外の世界を見るの久しぶりなんだ。あ、もう少し上ったらちょうど景色が見渡せそうじゃないかい?」


「――――」


「何ぼけっとしてるんだい。言っておくけど、ボクはあの時自分の存在が消えることを覚悟してキミを守ったんだぜ。キミが生きているのは、つまりはボクのおかげという訳さすなわち、早く見晴らしの良い所へボクを連れて行く義務があるわけだ」



俺は、セイリュウに急かされるまま峠の頂上を目指した。


その道すがら起きたことを簡単に説明したが、俺が屋敷を捨てたと聞いたセイリュウはアハハと笑い飛ばした。さらには無一文で杖以外何も持っていないこと、今日の宿さえ当てがないことを明かすと、腹を捩って大笑いしていた。

俺もそれにつられて、思わず笑ってしまった。


「宿の当てがないと言ったって、行く当てくらいはあるんだろう?」


「あると言えばある。あっちも受け入れてくれるはず、だと思う。多分。問題はそこに行くには歩いて何日かかるか分からないって事だな」


「まあまあ、ナイフで刺されても頭を岩に打ち付けても死ななかったんだ。人間て案外丈夫なもんだよ」


俺たちは見晴らしのいい場所に立ち止まり、眼下に見下ろせるナラザリオ領を眺めた。俺の存在など気にもかけていないようないつもの街並みに、安堵に近い念を抱く。

首の周りをうねるように飛ぶ精霊に尋ねた。


「それで? 昨日の夜どうやって俺を助けてくれたんだ。俺が気を失った後に何があった?」


「ええ~? そんな大事な話題をもうしちゃうの? 先は長いんだろ?」


セイリュウは勿体付けるように頬を持ち上げ、顔を綻ばせながら言った。


「ここからだよ、ロニー。ここからナラザリオの名を捨てた君の人生が始まる。

楽しみだねえ! 言っとくけど、魔法はまだまだ君の思っている以上に奥深く、世界は広いんだぜ!」


俺はそれに、こくりと頷き返して言った。


「そうか。それは楽しみだな」









        ――――――第一章 完――――――

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