第一章 幕間
※三人称視点
ロニー・F・ナラザリオがナラザリオ邸を後にしてから1週間が経った。
見るも無残だったナラザリオ邸には迅速な修繕の手が入り、既にわずかな傷跡や穴が残されるのみとなっていた。
だが使用人たちの体にはいまだ痛々しく包帯が巻かれ表情も暗い。その要因のほとんどは脳裏に刻まれた死の恐怖だろうが、『屋敷であの夜何が起きたか、一切の口外を禁ずる』と緘口令が敷かれたのも大きかった。
幸いと言うべきかなんと言うべきか、あの夜に起きた事件について街の住人に漏れた情報はごくわずかだった。屋敷と街に距離があること、時間が遅かったこと、事件に大きく関与していたのが他でもない屋敷の長男だったことが、一応の要因だったろう。
領民が知りえたのは――、どうやら怪我人が大勢出るような事件があったらしい。屋敷がひどい有様になっているらしい、くらいのものだった。
事実を知る被害者たる使用人は当然主人から発せられた緘口令にそむくことは出来ず、憲兵団も結局それに倣った。
街の人々は屋敷の住人たちが口を割らないので、一体何が起きたのかとさまざまな憶測を巡らせた。
はたしてドーソンが何故、そのような命令をしたのか。
一旦捕らえられたはずのロニーがどこへ消えたのか。
それについては使用人達すら分からない。
ドーソンは屋敷の使用人および憲兵団に、『ロニーは領外に追放した。ゆえに、ロニー・F・ナラザリオなど元よりおらず、ヨハンが長男となる』という最低限のことしか述べなかった。
追放――、確かに犯罪者に向けてそのような刑罰が下ることはあるだろう。
しかし、そもそも死罪を強行採決したのは他でもないドーソンなのだ。それがまた独断によって変更されたことにはさすがに怪訝な目線がむけられたが、ついにドーソンが口を開くことはなかった。
どれだけ無茶な言いぶりだろうとも、領主がそう言うのならば仕方がない。
事情を知る者は不承不承ながらに納得するしかなく、事情を知らぬ者はそもそも影の薄かった長男が消えたことさえ気づかない。
それはロニーとのやり取りを明かせば立場のないドーソンの、極めて強引でその場しのぎ的な黙らせ方ではあったものの、くしくも本人が望んだとおりに、ロニーという存在は『いないもの』もしくは『いなかったもの』として、ナラザリオ領は元の日常を取り戻していくと思われた。
ドーソンは屋敷の修繕を急がせ、一刻も早く今までどおりの姿に戻そうとしている。
しかし崩れた壁が塗り直せるからと言って、人の心はそう簡単に扱えるものではない。ドーソン含める屋敷の者全員が今、何よりも心配するのは、今や長男となったヨハンのことだった。
ヨハンは屋敷襲撃事件によって怪我を負わなかった数少ない一人だ。ヨハンは事件の最中もドーソンの計らいによって最上階の部屋に匿われ、幸いその身に危険が及ぶことはなかった。ヨハンが知っているのは、遠くから聞こえる悲鳴と逃げ惑う足音――、そして部屋を出て目にした変わり果てた屋敷の姿だけだった。
ヨハンの耳には一週間がたった今に至るまで、屋敷で何が起きてそうなったのかという情報は入っていない。
にもかかわらず「ロニーの事は忘れろ、これからお前が当家の長男だ」とだけ告げられたのだ。聡明なヨハンがそこに何かを察しないはずがない。誰も事情を話そうとしない態度そのものが、起きた事の不穏さを無言のうちに語っているとも言えた。
あれだけ明るかったヨハンはふさぎ込み、ここ一週間自室から出ようともしない。
ヨハンの胸に浮かんだのはまずナラザリオ家と言うものへの不信感。後ろめたい部分を隠そうとすることへの嫌悪感。
――――そしてその後、毒が染みわたるように襲ってきたのは、慕っていた兄に対する失望感だった。
僕は兄様が大好きだった。他の誰が何と言おうと、優しい兄様が好きだった。
兄様も、そうだと思っていたのに。
なんで僕に何も言わず屋敷を去ってしまったのだろう。
兄様も僕に後ろめたいことがあったのだろうか。
ちゃんと話してくれれば、僕は全力で協力したのに――。
ヨハンはカギを閉めた自室の窓から中庭を見下ろし、あの日言葉を交わした兄の姿を思い描いていた。
その目によぎった影は、少年から青年に変わる時の寂寥も含んでいたかもしれなかった。
〇
「――――また随分と、話が変わったものですね。ドーソン伯爵」
豪奢な造りのソファに身をゆだねながら、白髪に眼鏡の細身の男が言う。
口調は柔らか、だが全身から漂う雰囲気は言葉の印象とは真逆だ。
トゥオーノ・グラスターク侯爵――。
グラスターク領を統治するグラスターク家の現当主である。
「あなたから私は何度失敗の報告を聞けばいいんでしょうね。まあ、これが最後だと思えばさすがに安堵が勝りますが……」
「トゥオーノ侯爵には度々のご心労をおかけしまして、もはや言い訳のしようもございません……」
沈痛な表情でドーソンがそう頭を下げているのは、グラスターク家トゥオーノの自室。窓の外にはナラザリオ領よりもやや乾いた砂を含んだ夜の風が吹いている。
窓から少し下方を覗けば、王都からもこれを目当てにやってくる人がいるらしい巨大な歓楽街が見下ろせた。
「追放――、ですか」
トゥオーノがいかにも納得していないといった風に呟く。
ドーソンはそれに対しバツが悪そうにうつ向くだけだ。
「しかし、差し向けた殺し屋が失敗し最終手段にまで至らされた――、というのはさすがに驚きですよ。余程の強運の持ち主なのですねえ、あなたの長男は」
「……元、長男です。今や当家とは何の関係もありません。そこについてはご安心いただければと」
「ろくに公表も出来ないような私刑にどれほどの意味があるものか……。
まあ、こちらからこれ以上関りを持とうとしなければ無関係を決めてくれるという言で一旦妥協をするしかありませんね……。その状況であなたを殺さなかった――、という甘い決断を見るに、ある程度の信ぴょう性はありそうですから……。
繰り返し聞きますが、何かこちらの不利になるような物的証拠は握られていないのでしょうね」
「ええ、それはないと思います……、が――」
「?」
ドーソンが顔をうつ向かせながら、トゥオーノを目だけで睨むようにして言う。
「屋敷の使用人にまで手を出す必要が果たしてあったのか……、その辺りが私としてはいささか疑問です……。意図は分かりますが、それでもやりすぎだったのではありませんか……?」
トゥオーノはその問いに小さく鼻を鳴らし、呆れたような口調で言う。
「はっ、やりすぎ……? 長男を殺すことに同意しておいて、やりすぎですか?
いまさらそんな道義心をかざされても困りますね。毒を食らわば皿まで――、もし保険をかけていなければ、あなたは追放という落としどころさえ選べなかったんですよ。むしろ首の皮一枚保たれたのは私のおかげでもある。むしろ感謝して欲しいくらいです」
そう睨み返され、ドーソンは少し慌てるようにに居住まいをただした。
「し、失礼いたしました。トゥオーノ侯爵の計らいには、当然感謝しております……!」
「――本当なら私は今からでも口を封じるべきだとは思いますが、あのマーチェスファミリーまでをも跳ねのけたという事実、そもそも魔術師ダミアンに並ぶほどの実力を示した事実はやはり慎重に受け止めるべきです。これ以上こちらから手を出せばさすがにボロが出る。立場上、あなたに死んでもらう訳にもいかないのですから」
「と、当然恒常的に警備体勢は厚くしますが、奴が手段を選ばないとしたら正直どれほどの意味があるかは分かりません。ここはおっしゃる通り、一度ケリがついたと見て本来の話を進めるべきかと……」
ドーソンがそう進言すると、トゥオーノは唇を曲げながらも一応頷いた。
グラスに注がれた酒をグイっと飲み干すが、その白い顔色に変化はない。
「全く、無能な長男を片づけるだけで面倒なことになったものですよ。事故死の偽装が初めに失敗したと聞いた時点で既に嫌な予感はしていましたが――」
「言い訳の、しようもありません……」
「マルドゥークの失敗が大きいのも事実です。一体何のために、不信感が生まれないような方法をこちらから指示したのか……。いや、そこから起こった魔法の覚醒などという訳の分からない報告が全ての元凶とも言えますし……。全く、こんなことならばフィオレットの婚約の話を急ぐのでは……。
ああ、駄目ですね。過ぎた事への愚痴を言っている時点で時間の無駄です。
貴方の長男は消えた――、それが今回の結論なのです。いいですか」
「はい、トゥオーノ侯爵」
ゴトッ、と大きな音を立ててグラスをテーブルに叩きつけるトゥオーノ。
腕をソファーの背に投げ、見るからに苛立っているのが分かる。ドーソンはただただこれ以上不機嫌にさせないように同意の姿勢を見せるしかできなかった。
「グラスターク家次女フィオレットは、ナラザリオ家の長男ヨハンと婚約する。才覚溢れる両者は民からの羨望を集め、両家のつながりを象徴するものになる――。
いいですか伯爵、この世界で大事なのは建前です。それ以上に重要な事はありません」
トゥオーノはおもむろに立ち上がる。それはトゥオーノが話を終わらせるときの合図でもあった。
ドーソンはグラスを手に持ち広い部屋を歩くトゥオーノを見上げた。
細身で背の高いトゥオーノの顔が影を帯びると、どこか幽鬼の様な不気味さがまとわりつく。正直に言うとドーソンはこの男が苦手だった。ナラザリオ領の倍の面積があるグラスターク領を統治し、商業をここ十年で精力的に発展させた手腕には素直に感心する。
しかし、根本にある野心と言おうか、異常なまでに体裁を気にし、その為には道徳心など丸ごと捨ててしまうような、慎重だが残酷で執拗な白い毒蛇の様な男。そんな部分が苦手なのだ。
この人はたまに、人間に見えないことがある――。
ドーソンはそう思いながらも、この先さらにつながりが強まるだろう相手を複雑な思いで見あげるしかできない。
自分はここまで徹しきることが出来ない。そう自分の心の弱い部分が弱音を吐きかけるのを必死でこらえている。
あと一年ロニーの魔法の目覚めが早ければ、ロニーとフィオレットが婚約し、全てが丸く収まったのではないか。
もしくは魔法になど目覚めなければ、屋敷を襲撃して死んだ狂った出来損ないとして計画通りに葬り去られたはずではないか。
全てうまくいかない。何から何まで裏目に出る。ドーソンだって、とっくに腹を決めたと思っていたのに、それをむずつかせるようなことばかりが起こる。
まるで精霊がロニーを生かそうとしているかのようだ。
だとすれば、ドーソンが犯そうとした罪は子殺し以上に重いのかもしれない。
「ともかく話は以上です。馬車を用意させるので、夜のうちに帰りなさい」
「――ええ、それでは失礼いたします」
「言っておきますが」
「――――」
トゥオーノがふと、ドーソンの目の奥をのぞき込むように言う。
全てを見透かすようなこの目線も、ドーソンはたまらなく苦手だった。
「部屋に未だふさぎ込んでいるらしいヨハンくん……、中途半端な対応は許しませんよ。彼には今後のナラザリオ家を背負ってもらわなければいけない。私は彼の若き天才性を買って婚約を許可し、ここまでの労力をはたいたのですから」
「……もちろん、分かっております」
「ならよいのです」
ドーソンはグラスターク家の使用人に案内され、トゥオーノの部屋を後にした。
気が抜けた瞬間にまたも襲い掛かる感傷を、ドーソンは即座に心の中で殺した。
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