第32話 俺と僕


父の最後の呟きが、俺の頭から離れない。


『せめてあの時、階段から落ちて死んでいれば、こんな思いをすることもなかったろうに――』


俺は涙と鼻水をぬぐい、壁に背中を預ける。

壁からは冷たく湿った感覚が肌にしみこみ、体の底から夜の寒さが襲ってくる。思い出したように体の奥の痛みや疲れも覆いかぶさってきていた。


独房にはあまりにも静かな静寂が満ち、何の音も聞こえない。

上の階に使用人たちや家族がいるのがまるで嘘のようである。


背後、頭上の給気口から夜の空のほんの端っこだけが垣間見える。独房に迷い込んでいた羽虫が一匹、空を求めるようにまた外へ帰っていく。


ゆえにいっそ気兼ねなく、俺は独り言を呟いた――。





「どういう意味だと思う……。お父様が最後に言い残したあの言葉は」


自身に向けてそう問いかけると、ややあって返答が戻ってくる。


『分からないよ。僕らに心底愛想が尽きた、そういうことじゃないの……』


「お前は、お父様が好きか」


『そりゃあ……、そうさ。当たり前だろ』


「こんなことになってもか? 俺たちは明日、実の親から犯罪者扱いを受けて殺されるんだぞ?」


『それでもだよ……。だってそれが家族だろ。好きである事に理由とかはないのが当たり前だ。きっとお父様も辛いんだ、こんなことをしたくはないけど領主としては仕方がないんだと思う……。だから、僕たちが明日死ぬのも仕方ないんだ……』


「仕方がない、か……。仕方がない……ね」


『? だってそうだろ、まさか君はこの期に及んでここから逃げ出すつもりなのかい? 魔法も使えない、鉄格子は錆びてても壊れそうにないし、窓はとても出れる大きさじゃない。それとも頑張って大声でヨハンを呼んでみる? ……憲兵が駆けつけてくるのが関の山だよ』


「まあ、そうだな……。お前の言うとおりだ。どれだけ頑張っても無理なことは無理だからな……」


『…………じゃあ、何をそんな考えこんでるの。お父様が言い残した言葉に、他になにか意味があるって?』


「別に確信がある訳じゃない。だけど、考えること自体は無意味じゃない。人間は死ぬ直前まで考えることを止めるべきではない。考えを止めたとしたら、その時点で死んでいるようなものだ」


『い、言ってることは分かるけどさ……。

階段ってあれでしょ? 君が記憶を取り戻すことになった原因の、一か月前の事件。

部屋に魔法が飛んできたことといい、君が現れてから危なっかしい事ばかり起きるよね』


「なんだか俺のせいみたいな言い方で心外だな。階段から落ちたことに関してはただただお前の不注意じゃないか」


『まあ、そうなんだけど。――でも、不注意って言っても少し考え事してただけで、ちゃんと階段だとは認識してたはずなんだけどな……』


「まあ、あの一件がなければ俺は記憶を取り戻すことはなかったんだから、感謝してると言ってもいいくらいではあるんだが」


『…………あ、そのことで思い出した。あの時廊下ですれ違った人がいたじゃない?』


「すれ違った……? ああ……、そう言えばそんなこともあったかもしれないな……」


『あれってさ、確かジェイルだったよね』


「…………ジェイル?」


『うん、今思い返してみればそうだったと思う。まあ例のごとく目も合わさずに行っちゃったんだけど。でもあの日の怪我からだと思うんだ、ジェイルが妙に僕の部屋に尋ねてきたりするようになったのって。僕が生まれる前からお父様の執事をしているから、勤続年数自体は長いはずなのに。なんでだろう』


「………………!」


『どうかした?』


「なあ――、妙な質問をしてもいいか」


『うん?』


「階段から落ちた事故……。あれが事故ではなかったという可能性はどのくらいあると思う……? 俺よりお前の方がよく思い出せると思うんだが」


『!? じ、事故じゃなかったって、どういう意味?』


「誰かに階段から落とされたという可能性……。いや、自分相手にオブラートに包む必要なんてないな。

――つまり、ジェイルがあの時階段からお前をという可能性だ」


『な、そんな事ある訳ない! あり得ないでしょ!』


「……いいか、もう余計な情でものを考えるな。そしてあり得ないことはないんだ。何故ならたった数時間前、ジェイルは確かに俺たちを殺そうとしたんだからな」


『それでも、あの事故が、故意だなんて。そんな……馬鹿な……!』


「落ち着け。事実を事実として客観的に見るんだ。俺たちにはもうそれが出来るはずだろう。実験の時と同じだ、余計な先入観は真実を曇らせる。ただ起きた事実だけを述べろ」


『じ、事実だけを……、述べる……』


「そうだ」


『で、でも分からないよ。言ったろ、考え事してたんだ僕……』


「だが目の前に階段があるという事は認識していたんだろう。だったら記憶を遡れるはずだ。その上で分からないというのであれば仕方がないが、これはとても重要な事なんだ」


『なにがそんなに重要なの? もし仮に、ジェイルがあの時僕を殺そうとしてたって、いまさら何が変わるんだよ』


「お父様――――、いや、ドーソンのさっきの発言とつながるからだ」


『――ど、どういうこと……?』


「いや、そっちが先に答えてくれ。

お前は突き落とされたのか、それとも自分で足がもつれて転んだのか」


『…………あ、足は……、もつれてない。ただ気付いたら足を踏み外してたんだ……。背中を押されたかどうかは…………正直分からない……。で、でも……』


「でも?」


『可能性としては、確かに……、あり得る……、と思う……』


「――そうか。ではそれを踏まえたうえで本題に戻ろう。

ドーソンは何故さっきあの事故の事を示唆したんだ? 

俺の記憶では、あの事故にドーソンはひどく無関心だった。数日後の食卓ではもはや話題にも上らないほどにな。

だが、ドーソンはあの事故のことを覚え、意識していた。だからこそ、とさっきそう言ったんだ」


『――――つ、つまり?』


「あの事件は俺たちにとっては辛うじて命を取り留めた幸運な出来事だっただろう。

でも実はドーソンからすればそれは幸運ではなく、むしろ逆。あの時点でドーソンは俺たちの死を望んでいた――。

しかもただそう願ったのではない。ジェイルに背中を押させて、そう仕向けたんだ」


『あ、あの事故はお父様がジェイルに命令して僕を殺そうとしたってこと!? じゃあ今日のことも……?』


「ジェイルの意志ではなく、あくまでドーソンに命令されていただけ……。

だから丘の上でジェイルに「やったのか」と聞いた時、奴は肯定でも否定でもなく「答えられない」と言ったんだ。これは、考えてみれば当然の帰結だ。むしろ何故その考えが今まで浮かばなかったのか……。

いや、本能的にその答えを避けていたのだろう……。俺も人のことを言えないな。

ともかく、この論理はそう突飛なものではない。一考の余地が充分にある考えだと思う。そして、そう考えるともう一つの事件も怪しくなってくる」


『も、もう一つ……?』


「さっきお前が言ったんだぞ。

裏庭で決闘をしていたヨハンの水魔法が俺の部屋に直撃したやつだ。

たまたま外に出ていたから危なかったねで済んでいたが、もし中で寝ていたら……、もしくは少しでもタイミングが違えば大怪我どころじゃなかった。

もしあれにもドーソンの意志が介在しているとしたら、他の部屋のどこでもなく俺の部屋にだけ魔法が直撃したことには筋が通らないか?」


『いやいや! ――あ、あれこそ戦闘中の不運な事故だっただろ? まさか、ジェイルだけじゃなくヨハンもグルだったって言うつもりじゃあ――!』


「ヨハンが俺たちを殺そうとしたとは思わない。お前も見ていただろう、ヨハンは屋敷めがけて魔法を放ったんじゃない。相手を狙った結果、弾かれた先が俺たちの部屋だったんだ」


『じゃ、じゃあつまり…………。

マルドゥーク……、ってこと……?』


「階段からの事故偽装に失敗したドーソンが、より確実に俺を始末するため、知る限り一番の実力者に殺害の依頼をした。元々予定ではなかっただろうが、結果的にヨハンからの申し出を利用する形で事故を装った……。殺し屋に依頼するよりは話は付けやすいだろうしな」


『確かに、やけに急にフィオレットが尋ねてきたとは思ってたけど……。

じゃあ、ヨハンを気絶させたのは、戦闘中に作為的な部分があった事の記憶を薄れさせるため……?』


「ヨハンが巻き込まれたことはドーソンにとっても想定外だったろうがな。

今思えばヨハンが目覚めた後もマルドゥークに厳しい目線を向けていたのは、殺害に失敗し、あまつさえヨハンを巻き込んだことに対するものだったかもしれない」


『で、でも、そもそも――! そもそも何でお父様が僕たちを殺そうとするんだ!!

ひゃ、百歩譲って魔法に目覚める前なら無能な長男が邪魔に映るのは分かる。でもそれじゃあ、今日の事とは繋がらない! 今の僕たちは王都の魔術師に認められるほどの実力をみんなの前で示したんだよ!? 殺す理由がないだろう!?』


「その真意は俺にも分からない……。

だが、ドーソンにとって俺たちの存在が邪魔である事は間違いない。魔法が使えようと使えまいと、俺たちという存在を消したいんだ。……さっきの口ぶりからすると、長男としての俺たちの存在をな……」


『…………僕たちを殺してでも、ヨハンを跡継ぎにしたいってこと?』


「まあ、そういうことになるだろう……。

ヨハンを跡継ぎにしたいというのは、元々この屋敷の者全員の総意だった。俺たちも含めてな」


『でも、だからそれは、少し前までの話だろう?

そしてヨハンを跡継ぎにしたがっていたのは長男がどうしようもなく無能だったからだ。でもダミアン様との一件でそれが覆った……。そう言う話じゃなかったの? 僕たちはその為に頑張ってたんじゃなかったのか……?』


「何か事情があるのかは知らん。ともあれドーソンはそこまでしても俺たちを排除したかった――、のではないかという話だ」


『殺し屋を雇って、屋敷の者達を襲わせてまで……?』


「――もしそうだとすれば、庇いようもない。ドーソンは忌避すべき最低な男だということになる。俺たちに罪を擦り付けるため、自分の使用人たちを襲うよう依頼をしたのだからな。しかも、あくまで保険の為に」


『ごめん、その保険っていうのはつまりどういうことなのかな』


「今日のことを順に追ってみれば分かる。起こった事を思い出してみろ」


『――ええと、まず祠に行ったところでスピンとバーズビーっていう殺し屋に襲われて……、なんとか倒したと思ったらジェイルとマーチェスが現れて…………?』


「そう。スピンとバーズビーが第一陣。ジェイルとマーチェスが第二陣になる。

陣営を二つに分けた理由こそががつまるところの保険。第一陣で俺たちを殺せればよし……、殺せなかった時の為にマーチェスがいた。物理的に殺さなくとも、濡れ衣を着せ、法で殺す――。俺たちは知らぬ間に逃げ道を断たれていたのさ」


『もし第一陣の時点で死んでたら、どう説明してたの?』


「説明のしようなどいくらでもある。同時にこの屋敷での事件が起こっているんだ。狂って逃げた俺が勝手に崖から飛び降りただの、ジェイルが不可抗力で差し違えただのな」


『…………』


「――で、どう思う?」


『どう思うって……?』


「今のは全部事実からの逆算だ。状況的証拠から導ける一つの解答に過ぎない。机上の空論――、もしくは独房に押し込まれた俺の希望的観測とも言える。

だから、俺はお前の考えを聞きたい」


『そ、そんな難しい事、僕に言われても、わ、分かんないよ……』


「これは俺の身に降りかかったことでもあり、お前の身に降りかかったことでもあるんだぞ? 他人事じゃないんだ。現実から目を背けるな」


『でも、君の言う事には、そう、証拠がない……。君はお父様が黒幕だと決めつけたがってるように聞こえる……』


「…………確かに、そうかもしれないな」


『そうだよ。僕にはやっぱりお父様が僕たちを殺そうとしただなんて思えない……。どうせ死ぬなら、せめて家族を信じて死にたい……。僕らは正体不明の殺し屋に嵌められた、その方がまだ救いはあるじゃないか』


「救い、ね……」


『…………』


「分かった。とりあえず俺は言いたいことを言った。それだけで多少すっきりしたよ」


『…………』


「俺は寝る」


『…………うん、僕も寝るよ』





地下牢に、凍り付くような夜が染みわたる。

石と苔と水と鉄がさびた匂いがするだけで、何の音もしない。


俺は16年間の人生を、光る砂を掬い上げるように思い出していた。

時間の流れは針が止まったようにゆっくりで、過去に浸る時間は嫌というほどたくさんあった。





『ねえ……、起きてる?』


「――――ああ」


『あの後ちょっと……、考えてみたんだ。冷静に、君の言ったことを』


「…………それで?」


『さっき言ったことは撤回する……。

僕も、君の言ったことが正しいと思うよ。あの殺し屋たちを雇ったのはお父様だ、ジェイルじゃない』


「どうして考えが変わったのか、理由を聞いてもいいか?」


『僕はね、君みたいに論理的に物事を考えたりは出来ない。

でも、お父様とは君よりも僕の方が結びつきは強いはずだろ?』


「そりゃあそうだな」


『さっきのお父様の顔は、暗くてよくは見えなかったけど……、本心を言ってる時の顔じゃなかった……。嘘、とは少し違ったけど、後ろめたいことがある時の顔だった。そういう時お父様は怒るんじゃなくて、怒ったをするから……』


「…………お前がそう言うなら、そうなんだろうな……。

それで、その結論でお前は大丈夫なのか?」


『…………! か、悲しいよ……。それに悔しいさっ……! 当たり前だ、実の親に裏切られるなんて……! あんまりだ……。

だ、だけど……、真実に目を背けて死ぬ方が、もっと悔しいと思った……! 僕だって男だ。覚悟を決めるんだ、最後くらいは……!』


「ああ……、お前は立派だ。立派だよ。簡単に言える事じゃない。

安心しろ、ここは独房だ。大声で泣いたって誰にも怒られやしない」


『――――う、あぐ、うう……。ああ、ああああああぁぁぁ…………!!』


「…………」





長すぎる夜が明けた。

俺は夜通し泣き明かし、目が赤く腫れあがっていた。


涙を枯らした目に頭上から降り注ぐ朝日が刺さって痛い。

俺は重たい瞼を開け、すっかり薄汚れた自分の体を見た。


明朝、俺を断罪するとドーソンは言っていた。

今が何時か知らないが、執行の時はそう先ではないだろう。

だが、一晩で俺の心は驚くほど軽くなっていた。

この世への未練がなくなったという訳ではないが、不思議と押しつぶされそうだった死への恐怖が消え失せていたのだ。

理由は俺自身にも分からなかった。


「――ん」


俺が壁にもたれかかった体を起こそうとした時、何かが地面に転がっていることに気が付く。

それは、昨夜まではなかったもの、もしくは気づかなかったものだ。



俺は思わず頭上の細い窓穴を振り返った。だがそこには誰もおらず、静かな朝焼けの空が覗くのみだ。

理由は分からない。でも、これは偶然ではなく誰かの意志だ。


俺は落ちているそれを拾う。

それは、紛うことなく【魔法の杖】だった。


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