第17話 【0】
私が自室の扉を開けると、椅子に座っている人影が目に映った。
眉を顰めてみると、妻のエリアだ。
エリアは窓の外を見上げながら勝手にソファで紅茶を飲んでいる。
テーブルの上を見れば、私の紅茶も用意されていた。
どうやら座れという事らしい。
「何だ」
「何って、もうすぐ王都からダミアン様がいらっしゃるでしょう? もうわくわくしちゃって」
「……はあ、またその話か? ダミアン殿がいらっしゃるのは4日後の来週だぞ」
私が聞き飽きた話題にため息をつきながら紅茶を口に含むと、エリアは頬を膨らませて睨んできた。
「もう、4日後なのよ! 来週なんてのんびりしてたらすぐ来ちゃうわ! おもてなしの準備もしなくちゃいけないのに」
「準備ならジェイルたちが進めてくれている。お前が気にすることではない」
「そうは言っても心配なのよ。なんだかずっと緊張しちゃって」
「お前が心配しているのは、ヨハンのことだけだろう」
私がそう指摘すると、エリアは鳩が豆鉄砲を食らったような表情になり口元を結んだ。
「――そりゃあ、まあ、そうですけど?」
「ヨハンなら心配いらない。あの子はどこへ出しても恥ずかしくないほど優秀だし、それに今回の件は別にヨハンの力量を見定めようという大げさなものじゃない。こちらから無理を言って手ほどきに来てもらうだけなのだから」
「でも、あの子の腕前を見たらダミアン様も黙ってはおられないはずよ? もしダミアン様の推薦がいただけたら、魔術学校にも特待生としてお呼びがかかるかも」
「あの子はまだ12だぞ」
「もう、12なのよ!」
エリアは奮然として紅茶を机に力強く置いた。
もう何度目かも分からないこのやり取りに、私はいささか嫌気がさし始めていた。
エリアがヨハンに期待をかける気持ちはわかる。それは私も同じだ。だがそれにしても最近はすこし度が過ぎている。もはや病的と言ってもいい。
「先日だって騒ぎにはなったけれど、結果としてあのマルドゥーク様のお墨付きも頂けたわけじゃない。あの子の実力が王都の騎士に既に匹敵するというのは事実でしょう?」
「マルドゥークか。どうだろう、私はそこには少し懐疑的だが……。訳アリで王都を追放された男だからな」
「あら、少し前までは当家にもあのくらいの実力者を招きたいものだとおっしゃっていたのに、随分と意見が変わられたのね? 屋敷を壊されて余程ご立腹なの?」
「そういう訳ではないが――」
私は言葉を濁しながら、紅茶をすする。
「ヨハンちゃんの将来は私たちの将来でもあるの。貴方にはもっと危機感を持ってもらわないと困るわ」
「それは分かっている、お前に言われなくてもな」
マルドゥークの話はさておき、ヨハンが期待以上に実力をつけていることは事実だ。
それに、エリアが言った「もう12」と言う部分もあながち的を外してはいないと、私も内心では同意していた。
貴族の成人は早い。
優秀であればあるほど、今の段階からの身の振り方が今後に大きく影響する。
「そうそう、最近はロニーの部屋に一緒にこもっているんですよ。ご存じ?」
エリアが口をとがらせて言う。
「何時間もヨハンちゃんを部屋に閉じ込めているんですよ。稽古も勉強もおろそかになってるわ。使用人たちの様子を見に行かせても、何をしているかよく分からないというばかりだし……」
「…………」
私はため息をつく。
ロニーには、階段から落ちてからおかしな行動が増えたという話をジェイルから聞いていた。部屋を移させてからそれには拍車がかかっているとも。
「ねえ、聞いているの? あなた!」
「……うるさい」
「――っ」
声を荒げるエリアを、私は睨み返す。
その目線にエリアはびくりと震えて、息を漏らした。
「分かっていると言っている。仕事の邪魔だ、愚痴ならメイドにでも言え」
私はメイドを呼び、エリアを部屋に返すように言った。
部屋で一人、残った紅茶を飲む。
すると突然、ガシャリという音が聞こえたので私は驚いた。
見れば足元に割れたカップが散らばっている。
落としたのではない――、自分で床に叩きつけたのだ。
その事を自覚して、私はまたむなしくなった。
どうしてこうも思い通りに行かないのだろう。
全てうまくいくと思っていた輝かしい希望は、いつの間にこうも歪んだものになってしまったのだろうか。
私はやるかたのない後悔を覚え、足元の割れたカップを踏みにじった。
〇
俺は部屋の壁に大きな紙を張り付け、そこに棒でつながった丸三つを描いた。
水――、すなわちH2Oである。
「これは水だ」
俺は雑な図が描かれる紙をバシバシと叩く。
すると、目線の先に座るヨハンが手を上げて答えた。
「違うよ、串の折れたお団子か何かだよ」
「もっともな意見だが、残念ながら水なんだ。死ぬほど小さなこれがたくさん集まって俺たちの目に映っている」
「水がこんなお団子で出来てるって?」
「感覚的に理解が難しいのは分かる。だけど一度そうだと仮定してみてくれ」
「ふうん、わかった」
ヨハンはここ一ヶ月間ほど俺の研究の様子をずっと眺めていたことによって、随分頭が柔らかくなっていた。
開始直後は精霊がどうのこうの、他の人たちに見つかったら面倒くさいだの文句を言いがちだったが、どこかを境にそういったことは言わなくなった。
「水魔法を出してくれるか」
「いいよ」
そう言って、手慣れた様子で手のひらの上に水の球を生成するヨハン。
一定の速度で回転する水の球は、最近の研究のおかげで見慣れたものへと印象を変えていた。純粋な水の塊だと思っていたものが魔素によって出来た水もどきだと考えるようになったことも、またそれに拍車をかけている。
知識は世界の景色を変える。それもまた科学のすばらしさである。
「これはさっき言った通りに、折れた団子の集合だ。ヨハンは無意識のうちにその団子ひとつひとつに働きかけ、増やし、回転させている」
「ん~…………、そう……なのかなあ?」
ヨハンは壁に描かれた絵を見て首を傾げた。
手を宙に泳がせて、自分の中のイメージと重ね合わせているようだ。
「はい、兄様」
「ヨハン」
「水って朝露の一滴ってすごい小さなものだよね。でもそれも集まればバケツ一杯分の水になるじゃない? このお団子って要はそういう事? その一滴も小さな水の粒から出来ているってこと?」
「おお、その通りだヨハン。そう例えればよかったな」
俺は弟の理解の速さに関心の声を漏らした。そしてそれはヨハンの中でもしっくりくるものだったらしい。
「それならちょっとわかるよ。最初の頃は、小さなボールが風船みたいに膨らんで、それを手のひらの上で回すようにって意識してたから」
俺はヨハンと頷き合う。
魔素が空気中の水と反応して魔法水になる。含まれた魔素を操って回転させる。
ヨハンがイメージしているものと俺の理論は乖離していない。二段階のイメージになっているところも合致している。
「――よし、ここからいくつか質問をしたい。もう何度もしたのもあるが、確認作業だから答えてくれ」
「よきにはからえ」
「まず、ヨハンはこの水を球の形にしようとイメージしている。これは間違いないか?」
「うん、間違いないよ。水魔法の基本は、まず手の上に球を作ることから。はじめはうまくまとまらないんだけど、それが一つの塊になるところがスタート地点だね」
「なるほど。球の形をイメージ通りに変えることも可能だな?」
「限界はあるよ? 球を大きく~とか薄く~とかは出来る」
「出来ない限界というのはどこからだ?」
「ウサギの形を作れとかいうのは無理。紐状にとかならぎりぎり一瞬できるかも」
俺は一度そこで大きく頷いた。
水魔法というのはつまり、回転ありき。これは本で読んでとっくに分かっていたことだ。俺の仮定した理論に置き換えると、水もどきを生み出すのが第一段階、それを形作るのが第二段階ということである。
そして、ここから少し変わった質問へと移る。
「では、回転を意識的に止めることは可能か?」
「……回転を、止める?」
「そうだ。要は魔法を覚えたての段階。水がうまくまとまらない状態というべきか」
予想外の問いを受けて、ヨハンは思わず手元の球を見下ろした。
「で、き――――るかな。もうこれが当たり前だから、そんなことしようともしなかったけど……」
一度縦に振りかけた首を斜めにそらす。
たぶん出来るが、確証がないというところだろうか。
はなから魔法の使えない俺にしてみればわからない感覚だが、自転車に乗っている人にわざと下手くそに漕げと言っているようなものなのかもしれない。
ヨハンは難しげに口元を結びながら、手のひらにじっと顔を近づけた。
すると等速で回転する水の球が速度を緩め、やがて耐えきれないといった風にいくつかの水のブヨブヨに分裂し始める。
水の塊たちは行き場を求めるように、しかしヨハンの手のひらの上から出ない様に、静かに宙に浮いていた。
「――――出来たな」
「うん、でもなんか違和感がすごい。無理してる感じで気持ち悪い、むずむずする」
「すまんがもう少しこのままでいてくれ」
「これ何の意味があるの?」
ヨハンは顔をしかめながら、当然の疑問を口にした。
「俺が思うに、水魔法と言うのはそもそもこれがニュートラルな状態だと思うんだ。魔法のみを発動し、動かそうとはせず魔力のあるがままに任せている状態。これを借りに【1】の状態としてみればどうだ」
「……え、どうって?」
「これが【1】なら、回転している状態は【2】ということになる。
魔力を込め、【1】の状態からすかさず【2】にギアを入れる。逆に言えば【1】の状態を、この世界の人々はヨハンを含め、ほとんど意識していない」
「……いや、言われてみればそうかもしれないけど。でも、だから結局何が言いたいのさ?」
「【0】の状態を作れるのではないか、という事だ。俺が今まで組み立ててきた理論から逆算すると、可能なはずなんだ」
「?」
そこまで言ってもまだヨハンが首をかしげているので、結論を言う事にした。
「もし水分子の動きを完全に止めることが出来れば、熱が発生しなくなる。
――つまり、氷魔法が実現できるかもしれないという意味だ」
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