アグレッシブステイホーム
変化は気づかぬうちに起きているというが、表出するときは一瞬だ。
たとえば、水の沸騰。
水は沸点に達するまではどれだけ温められても水のままだ。しかし、沸点を越えた途端に液体から気体へと質的な変化をとげる。
そのような急激かつ劇的な変化を、カタストロフィと呼ぶ……はずだ。昔なにかで読んだっきりのうろ覚えである。
カタストロフィとは災害などの大変動を意味する単語で、特にフィクションの世界では悲劇的な結末をいう。こちらは学生時代に興味本位で取った物語論で習った気がする。
たしかその講義では、カタストロフィには『破局』という訳語がつくから、不安を煽って素人を騙そうという程度の低い恋愛記事にしょっちゅう出てくる、としていた。
「――雄しべと雌しべが自分の青春を狂わせたッスよ……」
「……な、なるほど」
おそらくゲーム画面を見ているであろうミサキさんの横顔に、おれはさっぱり話が分からないまま相槌を打った。なんでこんな話になったのかも思い出せない。脳裏をカタストロフィという単語が過り、大学の講義が閃き、そのなかで非常勤講師の丸くて広い額が光った。
そもそもね、破局の局は局面って意味なんだよ。破れるってのは中立的な意味しかない。局っていうのは事件のことだ。つまり破局にはコトノオワリって意味しかないんだよ。分かるかい?
おれは野次馬根性丸出しで講義に参加していたので、冷やかしレベルの質問でも手を挙げた。
破局は悲劇じゃないってことですか?
白けた顔で話していた非常勤講師は、カタストロフィ的に満面に笑みを浮かべた。
悲劇だよ! 悲劇だけどだよ! 悲劇だけど、悲劇なのは読者がハッピーエンドを望んでいるからなんだよ! 恋よ破れよと思って読んでんなら破局はハッピーな変化だろう!?
妙な勢いに圧倒され破局は中立的な意味だとする真意は聞けなかった。
後々、自分で気づきはしたが。
「えーっと……雄しべと雌しべになにをされたんですか?」
「違うっす。雄しべと雌しべになにかをされたんじゃないッス」
「えっと」
「デスから、せ、セッ、セッ――」
ミサキさんはそこで言葉を切ってコントローラーを置き、深呼吸した。
中学生じゃあるまいし、そこまで言いにくいものでもなかろうにと、おれは口を開いた。
「あれですよね? セッ――」
急に顔がカタストロフ――もとい、熱くなり、言葉につまった。めちゃくちゃ言いにくい。考えてみれば、友人たちから風俗の話をされたり恋人の話をされたりすることはあっても、セックスという語を使われた経験は少ない。もちろん、おれも同じだ。
言ったことが少ないから、口が慣れてない。なんなら使用率のピークは小学校高学年か中学の一、二年のころにありそうな気がする。
おれは口のなかで舌を転がし、言い直した。
「あれですよね? たとえ話」
「デス」
ふー、と細く長い息を吐きミサキさんが振り向いた。頬はほんのり赤くやけに真剣な目をしている。
「自分、子どもの頃、雄しべと雌しべにたとえて教えられたッスよ」
「フィクションなんかだとよく見る説明ですけど、実際にされる人いるんですね……」
「いいんです。そこは」
「……んでは、なにが問題なんです?」
「自分、教えられたときにはもう知ってたッスよ」
迫真のホラー顔。怒気すら感じた。しかし、怒っているにしても理由が分からない。話の流れ的におれが怒られてるとは考えがたいし、知ってることをボカして教えられて
「あ、クラスで受粉の話をして他の子に――」
「違うッス」
「違いますか」
即答だ。ますます真剣な表情の意味が分からなくなった。
おれは足を揃えて座り直し、カメラの画角を調整した。
「えーっと……もうちょっと噛み砕いていただけますと……」
「分かりませんか?」
「もう少し説明をいただければ、たぶん……」
「普通はセッ――のたとえに雄しべと雌しべの話を教わるッス」
「……まぁ普通でも珍しいですけどね」
瞬間、チベットスナギツネとはまた違う厳つい視線が飛んできて、おれは慌てて首肯した。
ミサキさん静かにゆっくりと頷き、顎の下で手を組んだ。黒縁眼鏡のレンズが光った。
「自分は、雄しべと雌しべのたとえにセッ――が入ったッス」
セックスだけに。
思ったけれど、おれは音にはしなかった。
「それで、どのような問題が」
「自分は混乱したッスー……」
ミサキさんはふいっと目の力を抜き、横向きに座り直して、ゲームの世界に戻った。
「だって、雄しべと雌しべッスよ? え、そういう? ってなりません?」
「まあ逆に例えられると、たしかに……」
「あとになって遠足だったかなんだか……行事の名前は覚えてないッスけど、苺狩に行って」
「……え」
コンテキスト――文脈がミサキさんの思考を予測反映していく。
「人工受粉デスよ? 人工受粉」
「……えっと……」
「管理するおじさんが、刷毛をもって歩いて回って、人工受粉ですよ?」
「…………なるほど」
何を言ってるんですかミサキさん。おれは内心で呟いた。
モニター越しにのんきな島の音楽が聞こえてくる。コントローラーを操るたびに、カチカチというプラスティックのぶつかり合う音が鳴った。
「自家受粉ならいいと思うんです」
「いいんですか」
「おじさんが刷毛って!」
「えと」
「蜂の足にくっついた花粉がって!」
「ミサキさん?」
「いくらなんでも爛れすぎてるじゃないデスか!」
カチカチカチカチカチ! と、ミサキさんが何がしかのボタンを連打した。
疲れ、なのだろうか。暑さだろうか。おれには、ミサキさんが錯乱しているように見えた。
当の本人がニンマリと浮かべる笑みすらも、感情の不安定さを思わせる。
「できたッス。青薔薇」
「……えーっと……大丈夫ですか?」
ミサキさんはコントローラーを置き、すぃっとこちらに向き直った。Tシャツの、すでに引き伸ばされている胸のプリントをさらに引き伸ばすかのように仰け反って、深く息を吸った。そして――、
「ぜんっぜん! 大丈夫じゃないッス!」
爆発した。まさにカタストロィ。
おれは向けられた膨大になってるかもしれない感情を受け止めるべく、身構えた。
「今日のニュース、見たッスか!?」
「いえ、まだですけど……」
「非常事態宣言! 東京、解除されなかったッス!」
「……ああ、まぁ、そうでしょうね」
首都圏はどうしたってキツい。大型連休が終わるまで二桁に抑えられていたのは、大型連休を目当てに頑張って自粛していたからだろう。連休で弾けたに違いない。おそらく、これから多少なりとも増えていく。そしてまた減っていくのだ。それまできっと、自粛はつづく。
わかっているはずなのに、ミサキさんはうるうると目に涙をためて言った。
「そうでしょうねじゃないッスよぉ!」
「えっと、落ち着いて――」
「落ち着いてなんていられないッス!」
ミサキさんはぺしぺしとテーブルを叩きながら訴えた。
「宣言解除されたら、自分、そっちに行くつもりだったッスよぉ!」
「え」
そんな、心の準備が。
口にするよりもはやく、ミサキさんは決然と言った。
「もう無理ッス。我慢できないッス。これからはステイホームじゃないッス!」
「えっと?」
「今日からはもう、攻めッス! 攻めのステイホーム! アグレッシブステイホームッス!」
「は、はいぃ?」
日本語にするなら積極的自宅待機。いや意味がわからん。
おれは荒ぶる乙女をなだめるべく冗談めかして尋ねた。
「して、その心は?」
「長期に渡るであろう自宅待機に耐えられる環境をつくるべく、リスクを取るッス」
「えーっと……心は?」
「自分、準備を固めて、そっちに行くッス」
「え?」
「攻めッス。攻めの姿勢ッス。ふたりなら乗り切れッス!」
「え、えぇぇぇぇ!?」
言いたいことは分かるし、願ったり叶ったりではあるのだが。
「あのでも、どうせリスク抱えるならおれが動いたほうが」
「ダメッス! こっちのキッチンは狭いので籠城に向いてないッス!」
「えとでも、電気とか回線とか」
「足りなそうなものは自分がもってきマス! おっきなバッグありマスし、送れるし!」
「えっと、えっと……け、契約! ほらここ借りるときの契約が」
望んでいた展開なのに、おれは必死になって止めようとしていた。脳裏を駆け巡っていたのは感染リスクの恐れなんかでなくて、同居を始めて破局に至るのではないかという恐れだった。
ミサキさんはじっとおれを見つめて言った。
「自分と一緒に暮らすの、嫌ッスか?」
「嫌じゃないです! それは!」
脊髄反射もかくやという速度でおれは答えた。
「一緒にいたいと思いますけど、あまりに突然だったんで、驚いてて……なんかありました?」
「……もう、限界ッス」
「不安ですか?」
ミサキさんはフルフルと首を横に振った。
「じゃあ、なんで……」
「自分はもう……もう……っ!」
ミサキさんの眼鏡がみるみるうちに曇っていった。
「ムラムラが限界ッス!」
ああ、うん、それはおれも同じですけどね。と、内心で呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます