テレポーテーション
ミサキさんの希望で突如として発動した
正直いって、厳しい戦いになるだろう。感染者数は減少傾向なれども緊急事態宣言下。大家との関係は極めて良好だが、時節がら生活騒音の増加にはセンシティブな問題だ。
――そう思っていた。
おれは携帯で大家と世間話をしながら、タブレットに目をやった。ミサキさんが祈るような面持ちでキリスト教式に合掌していた。ちらっとこっちを見たので指でオーケーサインを送った。
ぱぁっ、と朝顔のような笑顔が咲いた。一日で枯れないでくれるといいのだが。
「――もっと揉めるかと思ったんですけど……大家さんがいい人で良かったですよ」
まったくの無条件ではなかったが。
「ともあれ! 自分もそっちに行っていいってことッスね!?」
着けているのは熊耳のヘッドホンでも、ミサキさんの背後にぶんぶん振られる大きな犬の尻尾が見えるようだった。喜んでくれるのは嬉しい。けれど、出された条件にがっかりさせやしないかと不安にもなる。
「もともと単身者専用ってわけでもないらしいんですけどね。まぁ一ヶ月を目処にと」
「えっと……」
ミサキさんが顔を曇らせ、おれは慌てて手を振った。
「大丈夫です。そんな深刻な感じじゃないんで」
「でも期間が決まってるって――」
「ああ、そうじゃなくて。まぁ一応、別の物件も探すとは言ったんですけど」
「……やっぱり大変な事態なのでは?」
かくんと首をかしげるミサキさん。テレワークならでのもどかしいやりとり。懐かしくなったりするんだろうか。
「いえ、こんな状況なので、出てかれると次の人を探すのも大変なのかもですね」
「つまり好きにしてくれと」
「さすがにそこまで甘くないですけどね。時間かかりそうなら契約を見直すってことで」
「まぁそれはそうッスよねぇ……自分のトコもどうするか考えないと」
「ですね。それはおいおいやってきましょう」
隣人にも説明しないといけないのだろうが、まぁそっちもとりあず後回し。あれもこれもほったらかしておく癖がついてきてる気がする。まずい兆候。
でも、テレワークのおかげで優先順位をつけられるようになったともいえる。
「で、週末にかけて人が動きそうですから――」
「もっちろん分かってるッス! ざっくり必要なのと持ってきたいのを分けて――」
「あんまり量を増やさないでくださいよ? 広くないんですから」
「大丈夫ッス。前にもらった絵で必要そうなのはだいたい把握してマス」
「……だといいんですけど」
「そのためにコレがあるッスよ」
したり顔で言い、ミサキさんがカメラを揺らした。仰るとおり。
だが、おれとしては先にやらなきゃいけないことがある。
「とりあえず、掃除してからでいいですか……?」
「あいあい!」
ミサキさんは軽い調子で敬礼し、熊耳ヘッドホンをインカムに掛け替えた。
「自分は服とか食器とかざっくりまとめますね」
「……ほんと、あんまり増やさないほうがいいですよ? 自分で運ぶんですし」
「わかってマース」
音符かハートでも飛んでいそうな軽い声に、おれは鼻で息をついた。こっちはこっちでやることが山積みである。綺麗に使ってきたという自負はあるが、言っても男の部屋である。
換気して、掃除して、消臭して、コロコロかけて、それから……少ないながらも確実に部屋に存在するいかがわしいものを巧妙に隠蔽する。
「お部屋は暑いッスかー? それとも寒いッスかー?」
「えっと……空気を入れ替えないとなんで、暑いかも――」
「じゃあ水着ももってきマスねー?」
おれは言葉に詰まった。インカムを通じた雑談で隠し場所がバレやしないかと悩んでいたのたのが馬鹿らしい。もっとすごいのが家にくるのだ。
――じゃあ、もういいか。
おれは買い出しついでに廃棄することにした。
やることは他にも色々とある。
まずカメラを使ってミサキさんに家の状況を把握してもらい、持っていけるものと送るものを選別する。その間に、こっちはこまごました消耗品と、空っぽの冷蔵庫を埋める買い出しリストを作らなくてならない。
「えーっと……とりあえず夕飯は用意しておくつもりですけど」
「ほんとッスか!? うぁー、憧れの手料理ッスねー」
「憧れって」
大げさな表現におれは思わず吹いてしまった。
「和洋中、なにがいいです?」
「和でお願いしたいッス! お味噌汁が食べたいッス!」
「お味噌汁って、外国帰りじゃあるまいし……まぁいいですけど。他には?」
「スパークリングワイン!」
「……了解です」
泡と味噌汁って、とは言うまい。
そこまで決まれば、残りは個別の作業だ。一ヶ月以上にわたる奇妙なテレワークのおかげで雑談しながらの作業も慣れたもの。おれはミサキさんとの連絡手段を電話に切り替え買い出しに行くことにした。
繋ぎっぱなしの良さは、こういうときだ。遠隔地で小規模なお引越し準備をしているミサキさんに、なにを買っとくべきか直接聞ける。必要な量が見えないものは少し多目に、予想がつくのは過不足なく揃え、おねだりに応える。おねだりが過分かどうかは分からない。
街では、マスクが値崩れし始め、人々の流動が増えていた。
そのなかには、おれたちも含まれている。
今日だけなんで許してくださいと、おれはどこかの誰かに謝った。
そして。
「――んでは、これから出発いたしマス!」
「はい。地図すぐ出せるようになってます?」
「なってマス!」
「道わかんなくなったら連絡くださいね?」
「りょーかいッス!」
サウンドオンリー。けれど、おれには真面目な顔して敬礼するミサキさんが見えた。
「――ではでは、行きマス!」
「えーっと……いってらっしゃい、でいいんですかね?」
「はい! 行ってきマス!」
まるで戦地に赴くかのような決意表明。笑っていていいのかどうかは分からない。
いったん通話を終え、おれは心を落ち着かせるべく夕飯の支度にとりかかった。ミサキさんの希望はお味噌汁。メインにするなら豚汁だけど、さすがにもう外が暑すぎる。
なにより、突然のアグレッシブステイホーム計画発動により、冷蔵庫の食材バランスがくずれているのである。
「ま、味噌で煮込めばなんで味噌汁だしな」
そういうことにしておいて、おれは使いみちに困っていた食材を手にとった。和食希望ということで米を炊き、メインをつくって温めるだけだ。味噌汁は――ヨシ!
ポーン、とタイミングよくインターホンが鳴った。
料理を始めると時間が吹っ飛ぶ。自炊のネックはそこだ。今日みたいな日には都合がいいが。
モニターを覗くと、この暑いのに長袖を着た、くしゃっとした黒い短髪の、黒縁眼鏡にマスクな女子がいた。けっこうゴツめなキャリーバッグに肩掛けカバン。
ちょっと持ってきすぎじゃないですかと苦笑しながら、おれは玄関に向かった。
消毒よし、髪と服装よし。
おれは扉をあけた。
「……ちっすちっすッス」
生声はモニター越しのそれとはまた違う心地よい響きがあった。粗い画面だから可愛くみえると言う人もあるが、そんなのは生で見たことないから思うのだ。むしろい最近のカメラは中途半端に性能がいいから、余計なコントラストがついてたりする。
おれは一歩踏み出し抱きつ――こうとして、
「だ、ダメッス! 先に、手洗い! うがい! 消毒ッス!」
「……あ、ですよね。……えっと、それ使って下さい」
おれはミサキさんを玄関に招き入れ、消毒のボトルを指差した。
「――っと、そうだ」
「はい?」
「……おかえりなさい」
「――ッ!」
家を出る前にいってらっしゃい、だったら帰りはおかえりなさい。当然の挨拶のつもりだったがミサキさんは目をうっすら細めて耳の先を赤くした。
「た、ただいまッス」
手洗い、うがい、消毒――そして、念願のふたりでキッチン。
ミサキさんは鍋を覗いて爆笑した。
「赤い! お味噌汁が赤いッスよ!?」
「冷蔵庫で眠ってたビーツ入れましたからね」
「ビーツ! お味噌ボルシチ!」
「シチはスープですから、おボル汁ですかね?」
「味噌が消えた!?」
ミサキさんのオーバーなアクションに、これなら退屈しなさそうだと思った。
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