テレノーマル
ミサキさんの大人スイッチがどこで切り替わるのか分からないまま夜が過ぎ、ここ数週間ですっかり定着してしまったリモート生活が始まった。
普段なら朝は仕事の時間だが、今ではとりあえずビデオチャットを始める――のだが、
「うぁー……ちっすちっすッスー……」
――そう、やらしい。
だるーんと肩口が落ち、生々しい白肌が顕になっている。窓から入る日光でホワイトバランスが調整されているのか白陶めいた肌理の細かさ。いっそ触って確かめたい。
「……あの?」
かくん、とミサキさんが首をかしげた。左右の高さがちょっとずれてる黒縁メガネの奥で、とろーんとした目が瞬いた。五月の太陽的には昼過ぎで、夜遅くまでゲームしてたりしたユルユル同期的には朝なのだ。
おれはこみ上げてくるおかしみを口の中で転がし、インカムを叩いた。ミサキさんがノロノロとヘッドセットを押さえる瞬間を見計らい、
「――おはよ」
「――――」
ミサキさんの頬が、にへら、と緩んだ。瞬きによって焦点が合っていくのにしたがい、じわりじわりと頬と耳の先が赤らんでいく。やがて完全に意識が覚醒したのか、寝癖だらけの髪の毛をくしゃくしゃと整え始めた。
ほんと可愛いなと思いつつ、おれは言った。
「――おはよ、ミサキさん」
「~~~~~~っっっ!」
ミサキさんは頭を抱え込むようにして静かにゆっくりテーブルに沈んだ。なにがそんなにツボったのかは分からないが、どうやらおれが照れスイッチを踏んでしまったらしい。仕方ないので観察しながら待っていると、ちらっとミサキさんがこっちを見て、すぐまた顔を伏せた。こっちを見ているのに気づいて照れたってところだろうか。
「ミサキさーん? おはようございます」
「……ちっすちっすッス」
腕の下で声が籠もっていた。照れマックスだ。いつものように、このまま声でつついているのもの楽しいけれど、時計が遅めの昼食を指している。
おれは名残惜しさを圧して言った。
「ほら。顔あげて。一緒にご飯つくろ?」
びくん、とミサキさんの肩が小さく跳ねて、真っ赤になった顔がこちらを向いた。
「た、タメ語は、ちょっと、禁止でお願いしたいッス」
「……え? なんで?」
「自分の耳と心臓に悪いッス」
ミサキさんは眼鏡のズレを直し、赤くなった耳をさすった。肩からずり落ちたTシャツをいそいそと整え、ちょっと非難めいた上目を使って、呟くように言った。
「もー……ほんと、突発で夢が叶っちゃった的な……びっくりッスよ」
「夢って……朝の挨拶」
ミサキさんはこくりと頷く。
「起きてからのマイクでこれッスもんね……生で言われたらどうにかなっちゃいそうッス」
「言ってほしい」
「だ、だからぁ! タメ語は禁止ッスよぉ!」
握りしめた小さな手をぶんぶん振って怒る姿に、おれは苦笑しながら言い直した。
「じゃあ――言ってほしいですか?」
「――っ! ……それは、絶対、言ってほし――って何を言わせてるッスかぁ! もう!」
ミサキさんは顔を覆って言った。
「もー……自分、ちょっと顔を洗ってくるッスよ」
「おっけーでーす」
答えた瞬間おれの腹が、ぐぅ、と鳴った。いつもより遅くなっているからだ。からかいすぎるのもアレかと思ったが、腹が鳴ってしまったからには仕方がない。
「おれ腹減っちゃったんで、メイクとかいいですからね?」
「なーに言っ――」
「すっぴんも可愛いですよ?」
「――行ってきマス……」
ミサキさんは顔を隠しながらインカムを置き、立ち上がった。いつぞやもそうだったが、暑い日は下を穿かずに寝る主義なのだろうか。
ちょっとダサい形のピンク色は、一瞬にしておれの網膜に焼き付いた。
それから顔を洗うだけにしては長い時間を待って、顔を洗ってきただけにしては目鼻立ちがくっきりしてきたミサキさんに苦笑し、ふたりそれぞれキッチンに入った。
数週間前は存在しなかった日常。
ほんの数週間で必須になった日常だ。
手際と味つけに笑いあい、レシピ外の食材にズルいだのなんだの言いつつ仕上げて、ふたりでいただきますと唱える。
自分の舌とは違う味に舌鼓を打ち、しょーもない話をする。
「自分、ちょっとプヨっちゃいそうッスよ」
ごっくんと口の中のものを飲み下し、ミサキさんは幸せそうなため息交じりに言った。
「あとでちゃんと運動しないとッスね!」
「意外とちゃんとやりますよね、ミサキさん」
「人のこと言ってる場合じゃないッスよー? そっちも、ちゃんとやってくれないとっ」
「って言ってもねぇ……マスクして走るのって結構しんどくて――」
「ヨガ! ピラティス! リングフィッ――」
「普通の筋トレでお願いします」
可愛らしいブーイングを受け止め食事を終えたら、本当にトレーニングにすることになった。
この日常も、明日から新たに加わるのかもしれない。
複数種類のプッシュアップに、複数種類のクランチに、ランジに、プランクに……ミサキさんの美ボディを維持するトレーニングはおれの想像よりもハードだった。
「ダメッスねー、ちょっと鈍ってるんじゃないデスかー?」
「……かも、しれ、ない……です……ぐふっ」
わざとらしく言うつもりが本気のうめき声が漏れた。汗がベタつくあたり、マジで運動不足が極まってきているのかもしれない。
――にしても、デカいな。
モニターの向こうで、あぐら座りのミサキさんが背筋を伸ばしている。本人が見られてもいいのだと主張するスポブラに押さえ込まれ、さらに伸ばした背筋につられて引き上げられて、それでもわかる重量感。カメラが床に近いというだけでは説明のつかない果実。薄っすらと肉の乗った細腰とのコントラストは圧倒をとおりこして殺人的だ。
ふぃっと腰に手が降りて、呆れ百パーセントのため息が聞こえた。
「……見すぎッスよ?」
「ミサキさんのくびれは殺人的っすね」
「なんッスか、それ」
ミサキさんはクスクス笑いながら腹の肉をつまんだ。いや、正確には肉というより肌をつまんだというのに近い。ただ、ミサキさん自身も言っていたように、
「たしかに、前に見たときよりちょっとプヨってますね」
「デスねー……やっぱり走ったり歩いたりがないと、限界ってあるッス」
「こっちはもうへばっちゃったけど、おれ走るのだったらいくらでも――」
「やー……自分、走るのはちょっと苦手で……」
ぺろっと舌を出して、ミサキさんは大きな胸を抱えた。
なるほど、と、おれは頷くしかなかった。
「さて、と――それじゃシャワーを浴びてから、今日はナニスル? ッス!」
「シャワー……」
オウム返しにつぶやきボーッと見ていたら、ミサキさんが照れたようなジト目になった。
「ダメッスよ? 見せないッス」
「でも前、手ブラ――」
「あ、あれは若気の至りっていうか――ドキドキだったッスよ!」
「若気て」
年齢的な意味合いとしてではないが、なんとなくニュアンスが分かり、おれは苦笑した。テレワークという名目でビデオチャットをはじめて、すぐのころだ。ほんの数週間前なのに懐かしく感じる。あの頃は、おれもミサキさんも不慣れな環境にテンションがアガりすぎていたのだ。
いまだって顔を見ればアガるのだが、ちょっと趣が違う。
まさに若気の至りがあの頃で、この頃は、
「ミサキさん、タブレットってビニール袋に覆っとけば大丈夫ですかね?」
「へぁ!? だーかーらー、自分は――」
「いや、おれがシャワー浴びてるところをお届け」
「――――ゔぇ!?」
ずいぶん遅れて奇妙な声が響き、ミサキさんの細い喉がこくんと動いた。
「ま、マジデスか……?」
「見たいですか?」
「えっ、あっ、それはっ」
ミサキさんは口元隠し、瞳をぐるぐる彷徨わせ、やがて決然と言った。
「後学のために、ぜひ――!」
「やでーす」
「ゔぇぇぇえ!?」
いつにない大声に、おれは思わず吹き出した。
「じゃあミサキさんも――せめてカメラオフでもいいんで」
とうとう悲鳴すら消え、ミサキさんは酸欠の肴のように口をパクパクしていた。
――なんて可愛い人なんだろうか。
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