第9話

「とりあえず、先生には、夏期講習終了までお願いしようかと思っています。もし、ここが気に入れば、ぜひっ!契約を延長していただきたいっ!」

「は、はあ・・・」

「でも、ね」

 教室長は身を乗り出し、声のボリュームをさらに小さくした。

「この塾が直営校になったら、先生には、一旦、ここを辞めていただかないとならないんですよ」


 教室長の説明では、現在、この教室は学習塾のフランチャイズ校で、人事を含めた経営の全ては教室長に任されているという。直営校になると、本部が運営を行うため、講師が本名以外の名前で講義をすることができなくなるというのだ。

「結婚された方が、講師名は旧姓でと希望される場合は問題ないらしいんですけどね。先生の場合は、まるっきり名前が違ってますからね。頭の固い本部の連中が、なんと言うか・・・。ほかの塾の先生を偽名で働かせている、なんて変な噂を立てられたくないんですよ」

「フランチャイズ校だと、僕、いや、私は別名で勤務することは可能なんですか?」

「いいんですよ。しょせん、フランチャイズだから。問題が発覚したら、全部、私が責任を負う。本部には一切責任がないんです。でも、直営校になったら、全ての責任は本部が負うことになるんです。直営校になれば職員や先生方の給料は上がりますが、その分、我慢してもらうこともあるわけです」

 教室長は、急に姿勢を崩した。

「まあ、この教室が直営校になるまで、先生に働いていただけるかどうか、わかりませんけどね。塾講師って、世間が考えるほど稼げるバイトじゃないからね」

「そ、そうなんですか?」

 僕は、僕の前に出した資料を片付け始めた教室長に向かって、そう答えた。

「教えている時間より、授業の準備してる時間のほうが長い。教室にいる時間は長いけど、時給は教えている時間にしかつかない。教えることが好きな人や教員を目指している人にはいいバイトかもしれないけど、楽して稼ぎたいとか、高収入を考えている人には・・・」

 教室長は、まとめた資料を両手に持つと、応接テーブルの上で軽く叩いた。

「で、先生は、どちらですか?」

「え?」

「短期でパパっと稼ぎたいほう?それとも、教えることにやりがいを感じるほう?」

「僕、あ、私は・・・」

 僕は、出されたお茶を飲むふりをして、なんと答えようか考えていた。

「直属の上司から、昇格するには人にものを教える経験が必要だと言われまして・・・。今の職場では、僕、え、自分が一番下で、新人が入らないんです。なので、人に教える経験がないといいますか。新人に仕事を教える前に、こういう、塾というところで、教える訓練をしようかと・・・」

 いつだったか、S 女史が先輩に話していたことを、さも、自分が言われたかのように加工して、教室長に答えた。

「なるほど。ここで、人に教える訓練をしたい、と」

 教室長は、何度もうなづいていた。

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