第46話 第3部 その5

 雪華の髪が、そっと撫でられた。

「どうしたんだい。こんなにバッサリ髪を切っちまって…」

 かねがいつの間にか雪華の傍らに来て云った。

「…お義母さん、申し訳、ありません…」

 雪華はか細い声で云った。

「謝ることはないよ」かねは優しくいたわるように、雪華の髪を撫でながら、云う。「謝らなきゃいけないのは、私の方だよ。あんたに非道いこと云っちまったからねえ。本当にごめんよ。この通り、堪忍しておくれ」

 かねは雪華の髪から離した手を合わせ、さらに云った。

「…何があったか詳しくは知らないが、また戻って来ておくれよ。こんなこと云えた義理じゃないのは重々承知だけどね」

 雪華はハッとしてかねを見た。

「…でも、私は…」

 云いかける雪華に、

「でももヘチマもあるかい」

 とかねは微笑んで云う。

「あんたは私の娘じゃないか。娘が親の所に戻って来て何が悪い。ホラ、こうして娘は親の所に戻って来るもんじゃないか」

 云いながらかねは、じっと目を閉じてミホの身体に右手を当て続けるしまを見やった。

 かねは呟く。

「これも神様仏様の思し召しってもんかねえ…」



 同じ頃…。

 帝都東京、麻布台の「聖母マリアの家」である。

 仏蘭西フランスの作曲家フォーレの作になる鎮魂曲レクイエムの清澄な調べが、礼拝堂に流れる中…。

 祭壇の前に棺が置かれている。

 丸山トミ子が、横たえられている。

 シスターに案内されてやって来たのは、平之助である。

 平之助は神妙な面持ちである。

 案内して来たシスターは、昼間首がもげたトミ子の姿に卒倒したのと同一人である。

 平之助が棺の前に立った、その時である。

 丸山トミ子の目が、カッと開いた。

 もげたはずの首が、またつながっている。

 そればかりか…。

 胸の前で組み合わされていた両手が、棺の縁をガッ!とつかんで…。

 ムクムクと、トミ子は起き上がって来たのである。

 シスターは、また泡を吹いて卒倒した。



 一方、大江医院でも…。

 診察台に横たえられていた大江夫妻が、ムクッと起き上がって来たのだった。

「坊っちゃん!」彫鉄が声を弾ませる。「ご両親、蘇りましたよ!」

 しかし雪仁は、顔を引きつらせているのだった。

 雪仁は、近くにあったメスを、つかんでいた。

「あっ、坊っちゃん、何をなさるんです⁉」

 彫鉄は叫んで止めようとしたが…。

 雪仁はメスで母の雪緒の胸を、突き刺していた。

 しかし、雪緒はニッコリ微笑んだままだ。

「雪仁…」

 胸にメスが突き立ったまま、雪緒は大きく腕を広げるのであった。



 目覚めた美園ミホは、きょとんとした表情で、母のしまを見つめていた。

「…お母さん?私、どうしてここに?」

 ミホは、訝しげな表情になって、見守っている雪華とかねの方を見た。

 そして云った。

「…この人たちは、どなた?」

 雪華はフッと微笑むと、かねに囁いた。

「お義母さん、ちょっと私、行かなきゃいけません」

「行くってどこへ?せっかくこうして会えたのに…」

「きっと、戻って来ますから」雪華はじっとかねの目を見て云う。「…果たさなきゃいけない、義理があるもんですから」

「そうかい」かねは微笑んだ。「なら、仕方ないねえ。…きっと無事に戻って来るんだよ」

「…はい」

 雪華は「金玉楼」を出た。

 すると…。

 雪華の前に一台の人力車がすうっと来て、止まった。

 ひざまずいた車夫が、顔を上げた。

「辰さん!」雪華が驚きの声を上げる。「あんた清水トンネルの工事現場じゃ…」

「いつまでもあんな穴倉掘ってられませんや」辰は相変わらずとっぱずれた声で、出っ歯を見せてニッと笑う。「どうもああいうのは性に合わねえんでね。さあ、お嬢、乗って下せえ」

 雪華は辰に手を取られて、車上の人となった。

「で、どこ行きやす?」

「とりあえず、上野へ」

「合点だ」

 人力車は、発車した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る