第45話 第3部 その4

 吉原は、その夜も欲望につかれた…この字は衝かれたとも、憑かれたとも、あるいは疲れたとも、いずれとも表記し得るが…男たちが多数徘徊している。

 その男たちのギラついた目は、妖しげに彩られた張店はりだなの方に集中している。

 そして、男たちを呼ぶ、娼妓たちの嬌声がかまびすしいのでもあった。

 どうあれ誰一人、空なんか見上げちゃいないのだったが…。

 しかし、その中の一人がたまたま、ふと空を見た。

「うわっ、ありゃ何だ!」

 そいつが指さす夜空を、周囲の者もつられて見上げた。

「うわあッ!」

「キャアッ!」

 叫びと共に道行く男も女も、慌ててクモの子を散らすように道を開ける。

 その吉原のど真ん中の大通りに、飛行機が着陸する。

 遠巻きに人々が見守る中…。

 橘藤と雪華は飛行機から飛び降りた。

 素早く機体にくくり付けていた女を解き放つと、それを橘藤は背負った。

「上野行くんじゃないの?」

 雪華が云うと、

「「金玉楼」の場所を君は知ってるのかね?」

 と橘藤は云ってニヤッと笑った。

「あんたは知ってるの?」

「フン。第七をナメてもらっては困る。吉原の遊郭の場所ぐらい把握している。行くぞ」

 しかし「金玉楼」は吉原の大通りに店を構えている訳ではないらしい。

 と云うのも橘藤は角を曲がってさらに曲がった、一本裏の通りへと進んでゆくからであった。

 そこにも店は数多くあるのだが、表通りのような張店はなく、当然そこにたむろする娼妓の姿もない。

「こういう店は中で写真を見せて女を選ばせる。もっとも、最近は張店を出してる大通りの店も、中へ入ると旦那、こういう子がいますよって具合に写真を見せて選ばせるんだ。張店に出てるような女は文字通り看板だからな。本当の上客でなきゃ遊べないのさ」

「…詳しいんだね」

「その位の情報は把握している。…ここだ」

 「金玉楼」は名前は派手だが、表通りの張店のある店に比べると、ずっと地味な造りである。

 「金玉楼」と名の入った紫の長のれんが入口に掛かっていて、あとは行灯型のガス灯看板があるのみである。

「こういうのは表の店よりずっと安いし、面倒なしきたりもない。だから料金は安くても繁盛する。まあ今に大通りの店も格式だの何だの云ってられなくなって、こういう形になびくだろう。悪貨は良貨を駆逐するの例え通りにな」

 橘藤の解説は続く。

「だが、この店の造りが地味なのは、別の理由がある。…それは…まあいい」

「何?」雪華が怪訝な顔をする。「云いかけたのなら、云いなさいよ」

「…ここの女は、みんなマモノなんだ。理由は…前に説明したと思うが。さあ、入るぞ」

 雪華が顔を硬張らせてマジマジと店を見やる横で、橘藤は女を背負ったまま、長のれんを分けて入ってゆく。

 雪華もそれに続いた。

 屈強な男が揉み手をして顔はニコヤカに、しかし行く手を遮るように出迎えた。

 が、橘藤の背負っているものと、続いて入って来た雪華を見て、急に険しい表情になった。

「おいおい、なんの用だい?」

 男は険悪に云いながら、橘藤の肩を小突こうとする。

 その手をつかんだ橘藤は、グイッとひねり上げる。

「ギエエッ!痛エッ!痛えようッ!」

「おまえと問答してるヒマはない」橘藤は冷たく云う。「ここの女将に用がある。俺は東部第七憲兵隊の橘藤という者だ」

 橘藤は男を突き飛ばした。

 男はほうほうの体で奥へ引っ込む。

 すると奥から、着物姿の年増の女が現れた。

「おやまあ、何の騒ぎです。たとえ憲兵さんでも、店先で乱暴は困りますよ」

 云いながら出て来たその女に、

「これはあんたの娘だろう?」

 と橘藤は、背負って来た女…美園ミホの身体をドサッと框に下ろした。

「残念ながら死んでるんだが、あんたなら何とかなるだろうと踏んで来たんだがね」

 橘藤が皮肉な調子で云うのなんぞ、年増の女は聞いていなかった。

「ミホ!」女は美園ミホの身体にとりすがって叫ぶ。「ああミホ!どうしてこんなことに!」

「…雪ちゃん!」

 うろたえて叫んでいる女の後ろから呼び掛けられて、雪華はハッとしてその方を見た。

 かねが、これも呆然とした表情で立っている。

「お、お義母かあさん…」雪華は思わず声が上ずり、震える。「どうしてここに…」

「そりゃ私のセリフだよ」かねは云う。「それに、キットさんまで…どうなすったんです?」

 女将の美園しまは混乱してミホの身体から顔を上げ、かねと雪華を交互に見やって云った。

「なんだい、この人たち、おかねちゃんの知り合いなのかい?一体、どういうことだい?」

「いや…」かねも困惑している。「私も何が何だか…」

「グズグズしているヒマはないんだ」橘藤は厳しく冷たい口調で云う。「あんたはこの娘を蘇らせられるかね」

 しかししまはうろたえ、蒼ざめ、答えない。

「答えによっては、あんたを始末しなきゃならんのだ。早く答えろ」

 橘藤の声はますます冷たい。

「おしまちゃん、一体どういう…」

 かねが口をはさむと、

「黙ってろ!」

 昨日の愛想良さなど微塵もない非情な調子で、橘藤はかねを怒鳴りつけた。

 かねはハッと黙り込んだ。

「い、いったい、な、何のことだか…」

 しまは蒼ざめつつも、やや気を取り直して云う。

「しらばっくれるな」橘藤の口調はあくまで冷たい。「あんたが隠しているイロイロをこっちはすでに把握している。あんたを始末するなり監獄へ入れるなりは簡単だが、あんたの娘を蘇らせれば、すべて見逃そうと云っている。どうなんだ。何よりこれはあんたの娘なんだぜ」

 しまはごくりと生唾を飲んだ。

「…わかりました」

 そう云うと、しまはミホの首筋の傷口に、右手を触れてじっと目をつむった。

 この様子を雪華とかね、そしてこの騒ぎに奥から出て来た女たち、男たちも、じっと息を呑んで見つめている。

「では、ここは君に任せた」橘藤は雪華に云った。「さっきも云ったように、俺は上野でちっと用を済まして市ヶ谷に戻る。後で訪ねて来たまえ」

 そう云うと、橘藤は「金玉楼」を出て行った。



 飛行機の周りには野次馬たちが大勢群がり、巡査が一人、それを押し止めているという状況になっていた。

「ご苦労」橘藤は巡査に云う。「これから飛び立つ。危ないんで、こいつらを遠ざけてくれたまえ」

「ハッ…」巡査は敬礼しながら、「いや、しかしその前に、一一体全体これはどういう…」

 橘藤はしかし巡査の言葉などまるで無視して飛行機に乗り込み、エンジンをかける。

 プロペラが回り始めると、野次馬が「ワアッ!」と叫んで散った。

 橘藤は飛行機を発進させ、そして…。

 離陸しながら吉原大門をくぐり抜け、その先で、飛び立った。

 人々は呆然とそれを見送るのであった。 

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