第43話 第3部 その2

 飛行機は雲の中、雪にまとわり付かれながらしゃにむに進んてゆくようであった。

 それが、不意になくなった。

 雲の上に出たのである。

 嘘のように雲上は晴れ渡っていた。

 空はすでに暮れなずみ、煌々と満月が照っている。

 眼下にはじゅうたんのように雲が広がっている。

 見たことのない光景の美しさに、雪華は一瞬心を奪われた…。

 前のコクピットで橘藤が左手を振って何か指し示している。

 見ると橘藤のコクピットの左側に、ラッパの朝顔のようなものが口を開けている。

 見れば同じものが雪華の左手前にもあるのだった。

 橘藤が己の手前の朝顔に顔を近付けた。

「これは伝声管だ。会話が出来る」

 橘藤の声が、雪華の手前の朝顔から聞こえて来る。

「私は別にあんたと話したくはないんだけど」

 雪華がムッツリと答えると、

「まあそう云うな。話してないと眠くなるんでな。君もいまさら俺と心中は嫌だろう?」

 と橘藤は答えるのであった。

「それに、君は別に答えなくていい。俺が一方的に話す」橘藤は続ける。「しかし話の内容は、多分君にも興味のあるものだ」

 雪華は答えないが、橘藤は構わず続ける。

「その女は、いろいろな顔を持っているが、そのうちの一つは愉悦座という劇団の、春賀はるかかすみという芸名の女優だ」

 雪華は、飛行機の左側面にくくり付けられて風になびいている女の方を見た。

 大きく見開いたままだった女の眼は、飛行機が飛び立つ前に、雪華が閉じてやった。

 見栄えの問題もあるが、眼が開いたままだと乾燥してしまい、蘇生した時に支障をきたす可能性があるからでもある。

「上野駅で殺されたのは、その愉悦座の看板女優の潮乃しぶきだが、おそらく潮乃しぶきはその女をあの日上野駅でたまたま見かけてしまったが故に殺された。しかしあの犯行はその女に出来るようなものではないから、おそらく手下がやったんだろう」

「それなら、多分この子の下僕のクマヒコって男が殺ったんだ」雪華は云った。「クマヒコは私と同じ手刀師で、あんたが来る直前にこの子のじいちゃんの竜宮寺大造って人と一緒に小屋ごとダイナマイトで吹っ飛んだ」

「爆音は聞こえた」橘藤が云う。「…俺と話したくないんじゃなかったのか?」

「余計なことを云うなら、黙ってるけど」

「ああ、いや、いい。…まあ、またはからずも、こちらの任務が達成されたという訳だ」

「…何のこと?」

「ああ、君にはまだ云ってなかったな。実は昨日になって、「法悦丸」製造元と関係者に対して、内務省特命第69号というのが発動されてね。君が殺った竜宮寺大助に対して発動されたのと同じヤツだ」

 雪華は嫌な顔をしたが、そのことは云わず、

「だからあんたがわざわざ出張って来た訳?」

 と云った。

「まあ、それもある。しかし今回は俺も一杯食わされていたんでね。君も含めて失態は回収せねばならん」

「…最初から全部あんたが仕組んでることじゃないでしょうね?」

「バカバカしい。一体何のために?」

「その「法悦丸」とやらを自分の意のままにするために」

 雪華が云うと、橘藤は一瞬黙り込んだ。

 ついで、橘藤は爆笑し始めた。

「鋭いな」愉快そうに笑いながら橘藤は云う。「正直に云おう。実はそういうことを考えないでもなかった。ついでだから云っとくが、「法悦丸」を露西亜に横流しするにあたっては、さっき下で蹴散らした連中の大元、中越師団が大きく噛んでいた。そこで得た利益を満州の関東軍にさらに流していたのだ。中越師団の師団長はかつて俺が満州にいた時の上司でね。だが、昨日命令を受けたんで、悪いがその師団長閣下は処理して来た。ここへ来る前にね。俺だってここへ来る前に少々の苦労はしたのだ」

 しかし、雪華は何も云わない。

「…まあいい」橘藤は云った。「それはともかく、その女が劇団にいたのは、別に演技力が買われてのことではなくて、その女…いや竜宮寺製薬が重要な劇団のパトロンだったからだ。その女は君が殺した竜宮寺大助の…」

「やけにそこを強調するね」雪華は低く云った。「やっぱりイヤな野郎だ、あんたは」

「ああ、すまん。性格でね」

 橘藤は悪びれる様子はない。

「知ってるよ」雪華は云う。「私の腹違いの姉さんなんだろう?この子が云ってた」

「そうか。ならいい」

「あんた、どうせ最初から知ってたんだろう?」

「疑り深いな。まあ無理もないか。…だからさっきから大失態だと云っているし、謝ってもいる。生まれてこの方、この俺がこれほど反省しているのは初めてなんだぜ。まったく大失態だ。まんまとしてやられた」

「フン。自信過剰なヤツにありがちなことだね。自分は完璧だと思ってるから、肝心なことが見えてないし、こうして他人に多大な迷惑をかける。しかもそのくせ、いけしゃあしゃあとしてやがる。あんたがこの飛行機操縦してるんじゃなかったら、今すぐ叩っ斬ってやる所だよ」

 雪華は一息にまくし立てた。

「何と云われても仕方がない」橘藤は淡々と答える。「ことが済んだら俺のことは気の済むように存分にしてくれ。逃げも隠れもせん。だが今は、ことの始末をつけるのが先だ。…まあ、どうせだからついでに云っておく。実はこれらのことに気付けたのは、平之助君のおかげでね」

「…平之助さんをまた巻き込んだの?」

「お怒りはごもっともだが、そうトンがらずに聞いてもらいたい」

 橘藤はことの次第を雪華に話した。

 意外と正直に橘藤はことの次第を話しているのだが、雪華の表情は疑わしげである。

「と、いう訳で俺は平之助君を無事家まで送り届けた。なので、大目に見てもらいたい。それに俺もこんな寒いところへ来て少々派手にやらかしたんで、悪くて解任、良くて減俸だろう。決して無傷ではない」

「自業自得だろ」雪華は吐き捨てるように云う。「ところでその「法悦丸」の秘密工場ってのはどうなってるの?引き上げちゃってるけど、いいの?」

「興味ないんじゃなかったのかね」

「後ろから叩っ斬るよ」

「…悪かった。しかしその質問の答えは、これから行く先にあるんでね」

「…東京に?」

「まあ、お楽しみはこれからだ、ってことでね」橘藤は愉快そうに云う。「それより、その女の本名だが、知りたくないかね」

「…何て云うの?」

「宍戸ふみってのは、「バラのつぼみ」っていう芝居でその女がった役名だ。本名は…美園ミホだ」

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