第42話 第3部 その1

 彫鉄から報せを受けた平之助が、大江医院に息せき切って駆けつけた頃には、もうすっかり日暮れていた。

 浅草で母かねならびに美園しまと別れた平之助は、一人で浦益の家へ戻って来た。

 と云うのも、かねはしまとの積もる話があり過ぎて、その晩はしまの許に泊まることにしたからである。

 平之助は母を一人余所に泊めるのが心配ではあったが、久々に母が生き生きとしていることもあり、了解したのであった。

 かねは一人で帰れると云い張ったが、平之助は明日迎えに来ると云い含めて、浦益に戻って来たのである。

 すると、電報の不在票が二つも郵便受けに入っていた。

 一つは彫鉄から、一つは「聖母マリアの家」からである。

 不在票だけで電報の本文はなかったが、もうそれだけで、平之助には何か異変があったことが察せられた。

 こうして、平之助はまずは大江医院へと、取るものもとりあえず、駆けつけた訳である。

 大江医院の扉は固く閉ざされている。

 平之助が呼び鈴を押して「杉戸平之助です」と云うと、中から開いて顔をのぞかせたのは、彫鉄であった。

「彫鉄さん、どうした?」

 平之助が云うと、彫鉄はシッ!と唇に指のない右手を当てて、慌てて左手の人差し指を当て直した。

「いえね」彫鉄は声を潜めて切り出す。「私ゃこの指の具合を診てもらいに来てたんですがね」

 云いながら彫鉄は指のない右手を振る。

「なあに、大江先生は私ら出入り禁止みたいなことおっしゃってたが、私がこの指のことで泣きつくと、スンナリ診てくれましたよ。…まあ、それはともかく、幸か不幸か、その時私しか患者はいなかったんですがね。そしたら…まあこっちに来て下さい」

 そう云って彫鉄が平之助を引っ張って行ったのは、平之助も見慣れた診察室である。

 その診察台に、大江夫妻が横たわっている。

 そしてその傍らに、雪仁少年が黙りこくって能面のような表情をして、座り込んでいるのだった。

 大江医師の額には赤い穴が開き、そして大江夫人の胸には赤い染みが滲んでいる。

 平之助が入って行っても、雪仁は微動だにしない。

 平之助は雪仁に声を掛けようと思ったが…。

 何を言って良いのかわからない。

「このことは他には…?」

 平之助は小声で彫鉄に訊いた。

 彫鉄は首を横に振り、

「…おそらく、先生ご夫妻を蘇らせた人に何かあったんでしょうねえ…」

 と云った。

 平之助はうなずき、

「実は「聖母マリアの家」からも電報が来てる。きっと同じ用件だろう。…悪いけど、そっちにも行かなきゃいけないんだ」

 と云うと、今度は彫鉄がうなずいた。

「大江の坊っちゃん、あの通りですよ」彫鉄は小声で囁きながら、顎を雪仁の方へしゃくる。「あんな顔して、石のように黙りこくって、何話しかけても答えやしないんですよ」

 平之助は痛ましげに雪仁を見やりつつ、

「…それって、雪ちゃんの身にも何か…?」

 と云った。

「それなんですよ」と彫鉄。「だと思うんですが、しかし雪ちゃんのことだ。きっと大丈夫だし、何とかなるんじゃねえかと思ってね。それでこのことはまだ平之助さんにしかお報せしてねえんですよ」

「何とかなるって云っても…」

 平之助が困惑顔で云うと、

「信じましょうや、雪ちゃんを」

 彫鉄が云った。

 彫鉄はさらに云う。

「もし…そうだな、二十四時間経っても何ともならなかったら、おおやけに届けるなり、葬式の段取りするなり、考えましょう」

 彫鉄の言葉に、平之助も同意してうなずく。

「…彫鉄さん、悪いけど、そろそろ僕は「聖母マリアの家」に行かなきゃならない。ここはひとまずお願いしていいかい?」

「合点です」

 彫鉄はうなずいた。

「雪仁君」平之助は思い切って声をかけた。「大丈夫だ。…心配しなくていい」

 云ってしまって、平之助はたちまち後悔した。

 雪仁が、キッと鋭いまなざしで、平之助を睨み返したからである。

 しかしその鋭いまなざしには、涙がいっぱいに溢れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る