第40話 第2部 その30
と、同時に…。
「どけーッ!降りるぞーッ!」
橘藤の声が、近付くプロペラ音と共に聞こえて来た。
雪華はキッとその方を見たが…。
倒れている女の脚を引っ張って、さっきまで居た平地の下の斜面へと、急いで向かう。
女は、首を撃たれている。
その血がツウッと、雪の上に一筋鮮やかに赤い線を描いてゆく。
斜面まで引っ張ってゆくと、雪華は女を抱き起こす。
女は、目を大きく見開いて、何か云おうとしている。
「喋っちゃいけない。黙ってな」
雪華は女に囁きかける。
女の口から、血が溢れている。
そもそも喋ろうとしても、声が出ないようだ。
ズザアーッ!
雪を踏み散らかしつつ、橘藤の乗った物体が、一本道に下りて来た。
ザザザザザァーッ…。
雪に車輪を滑らせつつ、その物体は一本道を進んで来て、そして小屋の残骸の上まで来て、止まった。
自力で止まったのではなく、残骸に車輪や機体が引っかかったためである。
雪華も、これが話には聞いたことのある飛行機というものだと、この時にはもう思い至っている。
その飛行機から、ひらりと…ではなくややモタモタと下りて来た橘藤が、こちらに向かって歩いて来る。
橘藤はわずかに脚をひきずり、顔だけでなく右手にも包帯を巻いている。
斜めに顔に巻いた包帯は、赤く血に染まっている。
雪華はその姿をキッと睨みつけている。
「彼女を撃ったのはあんたなの?」
雪華は低く冷たく云った。
「のっけからそれか」橘藤は口辺に相変わらずの薄笑いである。「何で俺がその女を撃たねばならんのだ。撃ったのはあの連中だ。だいたいその弾傷は拳銃のものじゃないが、まあそんなことはどうでもいい。その女と一緒に東京に引き上げる。ここにはもう用はない」
「あんたの指図はもう受けないよ」
「今は議論しているヒマはない」橘藤は溜息混じりに云う。「そっちに云いたいことが山ほどあるのはわかっている。こっちも説明しなきゃならんことが山ほどある。だが今はとりあえず、云う通りにしてくれ。頼むから」
そう云って橘藤は両手を合わせる。
雪華は無言で睨み据えたままである。
「俺の失態だ」橘藤は手を合わせたまま続けた。「責任は取る。君の気の済むようにな」
「そんなことより」雪華は顎をしゃくって云った。「あれは何?」
ここへ至る一本道をやって来るトラックの群れが、近付きつつある。
「ここに展開していた部隊の増援だ」
橘藤は云いながら、胸元から
「頭の固い連中でな。俺がいくら引き上げるよう云っても、云うことを聞かんのだ。それどころか、こっちに向かって撃って来やがった。…また撃って来るから、ちっとばかり食い止めねばならん」
「何で?」雪華は飛行機の方を見やった。「あれですぐに出発するんじゃないの?」
「そうしたいのは山々だが」橘藤は苦笑する。「東京まで戻るには燃料が足らんのだ。だから連中のトラックからちょっとそれを拝借せねばならん。だから一台は破壊せずに残しておいてもらいたいのだ」
「私がやるの?」
「俺がやるより、その方が極めて効果的かつ効率的だ」橘藤は周囲を見回しながら云った。「この惨状も、君の仕業だろう?」
「誰のせいでこうなったと思ってるの」
雪華が低くくぐもった声で云うと、
「ああ、これは失礼。…あ、連中のご到着だ。そろそろ撃って来る」
橘藤はそう云って身を屈めた。
そのとたん、発砲音が山あいに響き始めた。
「飛行機に損傷がないようにしてくれ。戻れなくなるんでね」
橘藤が云う。
雪華は苛立たしげに大きく溜息をつき、橘藤に女を任せて、立ち上がった。
雪はずっとちらつき程度に降り続けている。
時刻がよくわからないが、周囲はやや暗くなっている。
雪華はうんざりした表情で、右腕に気を溜め、狙いを定め、振り出す。
降る雪を切り裂きつつ、飛ばした気が、先頭をやって来るトラックを、縦真っ二つにした。
「わああッ」
兵たちがトラックから我先にわらわらと逃げ出したとたん…。
ドカーン!
トラックは爆発した。
後ろに続くトラックが急停車する。
戻って来た気を右腕に受け止めた雪華は、今度は左腕を振り出した。
その気が後ろのトラックを横真っ二つにする。
さらに後方にもう一台が止まった。
「あれは残しておいてくれ」橘藤が雪華の足元で云う。「あれでトラックは全部だ。ああ、だがあれをあそこからここまで運転して来なきゃならんなあ。ちと遠い。…君、車の運転出来たかい?」
「ごちゃごちゃうるさいよ、あんた!」
雪華はキレて怒鳴った。
「ああ、これは失礼」橘藤は云った。「じゃ、この女は君に返す。俺はあのトラックをぶん取って来るんでね」
雪華が舌打ちしてしゃがむと、橘藤は女を渡した。
立ち上がった橘藤は悠然とした足取りで…片脚は引きずっているのだが…炎の上がっている方へ向かう。
途中、ヒョイと何かを拾い上げた。
逃げ出した兵が投げ捨てた銃である。
それを肩に担いで、橘藤は炎の方へ歩いて行った。
雪華は大きくうんざりしたような溜息をついて、思った。
当分雪は見たくない。
自分の名前に含まれてるから、余計腹が立つ。
と、不意に、抱いている女の身体が重くなった。
雪華はハッとして女を見た。
女はカッと目を見開いたまま、こと切れていた。
ちょうど同じ時刻…。
帝都東京、麻布台の「聖母マリアの家」である。
東京はよく晴れている。
そして東京も、暮れなずみつつある。
が、冬の空気は当然冷たく、テラスに出ているのは、丸山トミ子の姿しかない。
トミ子はいつものように、遠いまなざしのまま、ニコニコと風景を見つめているのだった。
果たして、本当に風景が見えているのか、わからないのであるが…。
シスターが傍らにやって来た。
「トミ子さん。そろそろ中に入りましょう」シスターは云った。「さあ…トミ子さん?」
シスターがトミ子の肩を揺すったとたん…。
トミ子の首にスウッと赤いものが滲んだ。
そして…。
その首がゴロン、と下に転げ落ちた。
それだけでなく、腕が、脚が…。
白い厚手のガウンが、内側から紅に染まってゆく。
「あッ、あッ、あウッ…」
シスターは泡を吹いて、トミ子の微笑んだままの首の傍らに、目をひん剥いて、卒倒した。
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