第38話 第2部 その28

 雪華は黒装束に身を固めてゆく。

 ふみが差し出す手甲脚絆を両腕両脚に着ける。

 ふみも着物を着ている。

 二人は、小屋の外に出た。

 鉛色の空が重苦しく垂れ込め、雪がちらついている。

 人の姿はない。

 雪華は用心深く、白一色の周囲を見回す。

 そこは、四方を山に囲まれているのだった。

 開けているのは、小屋の前のわずかな一角だけである。

 小屋の後ろは、山の斜面であり…。

 小屋の前の平地の下もまた、斜面であった。

 ここからではよく見えないが、その下はおそらく川である。

 山が前方に…方角はわからないが…ざっくり切り分けたように左右に開いて谷を為している。

 そこからこちらに向かって続いている一本道が、外界との唯一のつながりであると見える。

 雪華は正面を向いて、身構えた。

 ふみの祖父が立っている。

 しかしその両脇に、銃を持った兵が一人ずつ立っているのだった。

 その銃の一方は老人に、一方は雪華に向いている。

 すると、それを合図にしたように…。

 次々と、銃を構えた兵が、姿を現わしてゆく。

 雪華は身構えながら、それをまた見回してゆく。

 小屋の後ろの斜面にも…。

 小屋の横の斜面の下からも…。

 兵たちが銃を向けている。

 数十人の兵が銃を雪華たちに向けて、ぐるりと取り囲んでいるのだった。

 雪華はフウーッと溜息をついて、背中越しにふみに云った。

「ずいぶんしっかり囲まれてるよ」

 答えは、ない。

「…それがあんたの答えかい?」

 雪華は身構えたまま、そう云ってふみの方に向き直った。

 ふみが雪華に、拳銃を向けていた。

 ふみは、硬い表情である。

「そうよ。これが答えよ」

 ふみは云った。

 声はそれまでと同じだが、口調はまるで違う。

「それがあんたの本当の喋り方なんだね?」

 雪華は云ったが、ふみは答えない。

「宍戸ふみって名前も、どうせ本名じゃない」雪華は薄く笑って云った。「あんたの本当の名前を聞かせとくれよ」

「私の名前はいろいろあるのよ。どれを云おうか、迷うわ」ふみ…いや、ふみと名乗っていた女は云った。「…笑ってるわね。あなた、怖くはなくて?こんなに囲まれて…。いえ、あなたはこの程度のことに怯えはしないわ。あなたの超人っぷりは、いろいろ見させてもらったもの」

「あのじいさんも」雪華は老人の方へ顎をしゃくった。「あんたの本当のじいちゃんじゃないんだろう?」

「いいえ、あれは私の祖父よ」

 すると、老人に銃を突き付けていた兵が、その銃を引いた。

「改めて挨拶しよう」老人が云った。「ワシが竜宮寺大造だ。君が殺した竜宮寺大助の父、すなわち、君の祖父だ」

「そして私は」女が続けて云った。「あなたに殺された竜宮寺大助の娘よ。つまり、あなたにとっては異母姉ってことになるわね」

 雪華は流石に驚いて、女の顔をまじまじと見た。

 だが、雪華は構えを寸分も崩さない。

「ホホホ」女は引きつった笑い声をあげた。「そんな、鳩が豆鉄砲喰らったような顔しなくてもいいじゃない。姉と妹とで、さんざん愛し合った仲なんだから」

 凍りついたような無表情の雪華は、何も答えない。

「怒ってるの?」女は云った。「でもあなただってずっと疑ってたじゃないの。いつから疑ってたの?」

「…初めから」雪華は顔同様の無表情な声で云った。「あんたの手は、田舎の女にしては綺麗過ぎたからね」

「だったら」女はさらに云う。「何で初めから断らずに、ノコノコこんな所まで付いて来たの?」

「断れない理由を勝手に押し付けられたからね」

「それだけ?」

「見極めたかったんだよ」雪華は云った。「一体何が企まれてるのかをね」

「そんな理由で、ここまで来てしまったの?」女はまた引きつった笑いを浮かべる。「ごらんなさい。いくらあなたが凄腕の手刀師でも、これでは無理だわ。あなたが少しでも抵抗すればここの兵たちは一斉にあなたに発砲するわ」

「そうすれば、あんただって死ぬよ」

「構わないわ」女はひときわ声を大きくして云う。「パパがいないこの世なんて、生きていてもつまらないから。…でも、あなたとのこの数日間は、いい退屈しのぎだったわ。いろいろ興味深い体験をさせてくれてありがとう。…ついでだから、教えといてあげる。姉と妹で禁断の快楽を味わって来たけど、そんなことで驚いてちゃいけないわよ。私、パパとも男女の関係だったのよ。私を女にしたのは、パパなんだから。あの人、そういうモラルがまったくない人だから。ねえ、おじいさま、そうでしょう?」

「だから我が息子ながら、泣いて馬謖を斬るの例えどおり、始末をせざるを得なかったのだ」

 老人…竜宮寺大造が重々しい口調で云った。

「…そうかしら?」女が竜宮寺大造を遮るように云った。「大作伯父様の差し金じゃないのかしら?竜宮寺製薬のすべてを一人占めするための。そりゃ確かに事業家としては伯父様の方がやり手ですものね。パパはロマンチスト過ぎるもの。でもだからって、殺すことはないと思うの」

 女は拳銃を、竜宮寺大造の方に向けた。

 兵たちが慌てて女に銃を向けるが、竜宮寺大造は手を上げてそれを制する。

 女は続ける。

「おじいさまのお云い付けどおり、私はこの人…花澄雪華をここまで連れてきたわ。だから今度は、おじいさまが私の願いをお聞き下さる番だわ」

「願い?」竜宮寺大造は怪訝な表情になる。「何だ?」

「おじいさまが死んでくださることよ」女は引きつった笑いと共に云う。「パパを殺すことに同意したおじいさまを、私は許さない」

「ほう」竜宮寺大造はニヤリと笑う。「ワシを殺して自分も死ぬ…か。しかし今のおまえは、果たして本当にそうしたいのか?新しい未練が、出来てしまっておるのではないか?」

 女かハッとしてひるんだのがわかった。

 その時である。

 小屋の背後に居並ぶ兵たちの間を割って、下に飛び降りてきた者があった。

「クマヒコ!」女が叫ぶ。「生きてたの⁉」

 雪華は正眼に構え直して、その者と対峙する。

 あの、入道坊主の大男が、やはり正眼に構えて、雪華と対峙している。

 大男は長羽織のように仕立てた毛皮を着込んでいる。

 兵たちはまたも一斉に銃を構えたが、これまた竜宮寺大造か右手を上げてそれを制した。

「御前」大男は云った。「この女を撃った兵は、お云い付けどおり処刑致しました」

 大男は続けて云った。

「お嬢様、お下がりください。私めはこの女とぜひとも決着を付けとうございます」

 すると女がうなずいて、後退った。

「私は」雪華が云う。「無駄な殺生はしたくない」

「まるで自分が勝つという口ぶりだな」入道頭の大男はニヤリと笑う。「御託はいい。俺と戦え!」

 雪華は小さく溜息をつくと、キッと鋭いまなざしを、そのクマヒコと呼ばれた入道頭の大男へと、改めて向けた。

 女は心配げなまなざしで、この対決を見守っている。

 雪華とクマヒコは、じっと正眼に構えたまま、動かない。

 凍りついたような沈黙が、場を支配する。

 とてつもなく長い時間のようでも、ごく短い時間のようでもあったが…。

 突然、ダッ!とクマヒコが右腕を振り払いつつ、雪華の方へ突っ込んで来た。

 その瞬間、雪華は垂直に高く飛び上がって宙で一回転し、クマヒコの背後にタン!と立った。

 再び、沈黙が訪れた。

 クマヒコが、ニヤリと笑った。

 次の瞬間…。

「クマヒコ!」

 女が叫び、クマヒコはガクリと膝をついた。

 血がボタボタッと、クマヒコの身体から落ちて雪を赤く染める。

「クソッ…」クマヒコは呻いた。「そんなバカな…」

 クマヒコは左手で右腕を押さえているのだったが…。

 血はそこからも流れているが、クマヒコの右腹からも、流れている。

「すぐに手当てすれば命は助かる」雪華は云う。「でももうその右腕は手刀には使えない。気脈を斬ったから」

「き、気脈…」

 クマヒコが目を大きく見開いて、呟いた。

 次の瞬間。 

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