第36話 第2部 その26

 この光景は見覚えがある…と雪華は思った。

 雪に囲まれた山中の、滝の上…。

 だがそんな感慨に耽るのは、ほんの一瞬だ。

 たちまち、足元が崩れ…いや、何かに足元を掬われたのかも知れない…真下の滝壺へと落下してゆく。

 そこには青白く冷え切った、水がある。

 不思議と、何の音もしない。

 いや、正確には、何かザアッというような音が聞こえる。

 水の中は、これも不思議と、冷たくはない。

 ただ、ものすごく薄暗い。

 そして、別の音がする。

 ドクン、ドクン、ドクン…。

 かすかだが、正確で、力強い音だ…。



 雪華はハタと目覚めた。

 火事…?

 目の前に赤くチラつく炎に、雪華は瞬時そう思い、ギョッと目を見開いた。

 それから、身体にのしかかる重みに気付いた。

 反射的にそれを押し返そうとして、その柔らかさと温かさと、そしてドクン、ドクンという鼓動に、さらに気付いた。

 それはふみであった。

 全裸のふみが、雪華に覆い被さって、寝息を立てているのだった。

 雪華は、自分も全裸であることに気付いた。

 そしてさらに…。

 美味そうな匂いが鼻をくすぐり、雪華の腹がぐうーッと鳴った。

 燃えている炎の上に鍋がかけられており、何かがグツグツ煮えている。

 鍋は、天井から吊るされた鈎に引っ掛けられているのだ。

 ふみの上にも、雪華の下にも、毛皮があった。

 見回すと、その室内の壁はほとんどが毛皮に覆われているのだった。

 その合間に、獣の頭骨が掛けられている。

 部屋の中は、温かかった。

 雪華はふみを揺すったが、ぐうぐう寝息を立て続けるふみは、起きない。

 と…。

 壁の毛皮の一つが不意に揺らめいて、その向こうから、人が姿を現わした。

「もう気づいたか」その人が低く嗄れた声で云った。「さすがにあの冷たい中、あの薄い服装なりで無事だったことはある」

 その人は、頭には長い白髪を頂き、顔の下半分は長い白髭に覆われた、老爺であった。

 野良着の上に毛皮をまとったその姿は、山中の狩人そのものだが、その風貌は仙人のようでもある。

「ワシがふみの爺じゃ」老爺は続けて云った。「ふみがここまで報せに来たのでな。ワシとふみとで、おまえさんをここまで運んだんじゃ」

 雪華は慎重に見極めるように老人を見据えながら、ふみの身体の下から、ゆっくりと自分の身体を抜いた。

 ふみは目覚めなかった。

「腹が空いとるだろう」老人はさらに云う。「そこの鍋に鹿肉の汁が煮えておる。おまえさんの口に合うかどうかわからんが、今はそれしか食うものがない」

 雪華は毛皮で前を隠しつつ身を起こして、

「…ありがとうございます」

 と云った。

「おまえさんの服は今乾かしておる」老人は云った。「こんな猟師小屋だで、毛皮しかない。それで良ければ、これを着ておけ。鹿の毛皮じゃ」

 云いながら老人は壁にかかった斑点のついた毛皮を外して、雪華に手渡した。

 雪華は受け取ったものの、なおもためらっている。

 老人がそこに居続けているからである。

 老人は鍋のかかっているいろりの傍らにどっかり腰を下ろし、薪をくべ始めていた。

「ワシはもうこんな年寄りじゃ。気にするな。それに外は寒いのでな。外に出ておると、さすがに身体にこたえるようになったわい」

 雪華は仕方なく立ち上がり、老人の手渡した鹿の毛皮を身にまとった。

 着る、と云うより身体に巻く、と云うものであった。

 雪華は帯…と云っても荒縄だが…を締めると、いろりを囲んで老人の対面に正座した。

 雪華は訊いた。

「私は滝の上で鉄砲で撃たれたと思ったのですが、傷はないようです。…ふみが私を蘇生したのでしょうか…?」

「フフ」

 老人は低く笑った。

 そして、

「これじゃよ」

 と云って何やら取り出し、それを雪華に差し出した。

 見覚えのあるカイロであった。

 とっぱずれの辰が雪華に渡したカイロである。

 ただ、老人が手渡したそれは、真ん中が大きくヘコんでいた。

「弾はそのカイロに当たったんじゃよ」老人は云った。「そのカイロのおかげで、おまえさんは命拾いをしたという訳じゃ。安心せえ。ふみが何もせんでも、おまえさんの生命力はたくましいようじゃ。フフ」

 そこで老人は眠っているふみの方を見やり、

「いや、ここへ連れ込んだおまえさんをああして温めておったから、ふみが何もしなかったというのは正しくないな。…ところで」

 老人は再び薪をくべながら一旦言葉を切り、そして、

「その背中、立派な彫物じゃが、どうしたんじゃ」

 と訊いた。

「ちょっと、訳がありまして…」

 言葉少なに、雪華は答えた。

「ハテ、云いたくないか」

 老人はチラリと雪華を見やった。

 雪華がコクリとうなずくと、

「そうか」

 と老人はニッと笑い、薪をくべ続けるのであった。

 雪華の目の前で鍋がグツグツ煮え、美味そうな匂いを漂わせ続けている。

 思わずゴクリと、雪華は生唾を飲む。

「おお、悪かった」老人は木の椀を手に取りつつ云った。「口に合うかわからんが、たんと食え」

 老人は鍋の中身を椀によそい、湯気のホクホク立つそれを、雪華の方へ差し出した。

「…頂きます」

 雪華はぺこりと頭を下げる。

 老人は箸と竹筒を、さらに雪華に差し出す。

「これは山椒の粉じゃ。臭みが消えて風味が増す」

 老人が云いながら渡すそれを、雪華は受け取りながらまたぺこりと頭を下げた。

 雪華は竹筒から粉を、椀の中の汁にふりかける。

 山椒の香りが立ち昇って来て、雪華の腹は盛大にグウーッと鳴り、口中に唾が洪水のように溢れて来る。

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